唐崎コミックマガジン

本日もコロッケカレーで。

第25回 最終回 いつかまたここで。 open

みなさん、こんにちは。
改めて「裏メニュー」てなんやねん!と思うshimanyです。

さて、いつものごとく唐突ですが、超人気ロック・グループB’zの松本孝弘さんは、B'zの曲を作曲する時は、ギターを弾きながら、実際に自分でメロディを歌いながら作るそうです。

ご存知のとおり、松本さんはグラミー賞を獲るくらいのギターの名手なので、どんなメロディでもギターで弾き、それによって作曲するコトは可能なはずですが、B'zの曲が、あくまでも「歌」である以上、そうやってギターで作ったメロディではなく、自分で実際に歌ってみて、いい曲だと思えるモノでないといけないのかなと、勝手に解釈しています。

一方、膨大な著作を残した経営学者のドラッカーですが、彼が本を書く場合は、まず、自分のしゃべったコトを口述筆記させ、それに何度も手を入れて最終的に完成させるという手法を採っていたとのコト。

これももしかしたら、前述の松本さんの場合と同様、読んで伝わりやすい文章は、アタマで考えるのではなく、実際にコトバとして発してみて分かりやすいコトが重要なのかなと思ったりします。

……ただ、もし、そうだとしても、口述筆記をしてくれる秘書なんて誰でも雇える訳ではないですし、そうかといって、自分がしゃべったモノを録音し、それを自分でテキストに落とすのは、あまりにも効率が悪くて現実的ではありません。

やはり、ドラッカーくらいにならないと、そんな方法は採れないよな……とほとんど諦めかけていたトコロ、最近は、そんな夢のようなハナシが現実味を帯びています。

そう、コンピュータ(スマートフォン)に対する音声入力です。

「……て言っても、誤変換ばかりじゃ、かえって修正に手間がかかるよ」と思われると思いますし、自分自身、お気に入りのブロガである堀 E. 正岳さんが、通勤時に、クルマで音声入力によるブログの下書きをしているなんて書いてあるのを見ても、もうひとつ疑いの目で見ていたのですが(すいません!)、ぜひ、みなさん、騙されたと思って、実際に一度、お持ちのスマホで音声入力を試してください。

もちろん、完璧ではありませんが、充分に実用に耐えるレベルになっていると思います。

つい先日には、マイクロソフトから、コンピュータの音声認識が人間レベルに達したという発表があったばかりですし、「超整理法」の野口悠紀雄さんには、音声入力だけで書いたという触れ込みの本(『話すだけで書ける究極の文章法』)もあります。

ただ、音声入力には独特の感覚があり、まだまだ慣れるのに時間がかかりそうですし、そもそも、場所を選ぶ(インターネット接続がないと使えなかったり、あまり、ヒトの多い場所では使えない(笑))等の難点もありますが、前述のドラッカーだけでなく、あの梅棹忠夫さんも、視力を失ったあとも口述筆記で旺盛な執筆活動を続けられたコトを思うと、むしろ、音声入力の方がよい文章が書けるんじゃないかと、俄然、希望も湧いてきます。

まぁ、道具が揃っても、それだけで中身が伴う訳ではないのは、いつものコトですが……

それはともかく(笑)、子ゾウを杭につないでおくと、簡単にその杭を引きぬけるくらい大きくなっても、杭は抜けないモノだと思い込んでいるため、ゾウは逃げないというハナシがあります(「エレファント・シンドローム」)。

これって何についても言えるコトだと思いますが(小さい時に世話になったヒトに、いつまで経ってもアタマが上がらないとか)、音声入力(に限らず、自分にとっての新しいテクノロジィ)についても、そういった先入観で損をしているコトがあるのかなと思ったりします。
ぜひ、みなさんも、杭を引き抜いてみてください(笑)。

ところで、この連載ですが、開始からちょうど1年経った今回で、いったん、 終了させていただきます。
長い間、本当にありがとうございました。

最後の最後でなんですが、この連載の「コロッケカレー」というタイトルは、単純に、ボクの大好物を2つ並べたモノでした(笑)。

好きなモノ × 好きなモノ。

みなさんにとってのそういうモノになるように願ってつけたタイトルですが、今度お会いする時は、本当にそういうモノが(音声入力で?)書けるようになっていたいと思います。

第24回 遠くを見通す目 open

みなさん、こんにちは。
PPAPを歌っているのは、てっきり千原兄だと思っていたshimanyです。

さて、ボクが感動するコトのひとつに、「遠くまで見通している視点」があります。

例えば、シリーズモノの小説等を読んでいる時、かなりあとの巻になってから、第1巻で貼られていた伏線や、場合によっては、同じ作者の別の作品の伏線が回収されたりする時なんかがあったりします。

で、それぞれの巻の発行時期が数年、もしくは、数十年離れていたりすると、

「え?この時点で、こんな先のコトまで考えていたの!?」

と、めちゃくちゃ感動してしまうのです。

……まぁ、小説を書くような方にとっては、そんなコトはごくあたり前のコトなのかもしれませんが(笑)、それだけ、自分には未来を見据える目がなく、先のコトを計画がするのがこの上なく苦手なのです。

ただ、そうは言っても、先を見通すコトが苦手なのは、何も自分だけではなく、ある意味、人間の特性なのかな?と思ったりもします。

これからの年末シーズンには、来年以降の社会や経済を予測する本が実に多く出版されますが、まず、大抵は、当たりません(笑)。
他にも、「予言」の類が全く信用ならないのは、我々「ノストラダムス・ジェネレーション」にとっては、まさにデフォルト。
それゆえ、誰かが過去に言っていたコトが、たまに当たった(ように見える)コトがあったりすると、非常に大きな話題になる訳です。

他にも、ボクが以前から不思議に思っているのが、フィクションにおける未来予想。

映画「2001年宇宙の旅」は1968年の作品ですが、劇中の2001年には、人類は、木星まで有人による宇宙飛行を行なっています。

当時は、それなりのリアリティがあったと思うのですが、しかし、実際の2001年時点の人類は、木星どころが火星にすら行っていません(というか、月にもあまり行かなくなりました)。

で、この手の“読み違い”は他にいくらでもあると思うのですが(例えば、「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」は、公開が1989年、劇中の舞台は2015年の設定です)、多くの作り手がそのコト、つまり、「人類は思っている程早くは進化しない」というコトをイヤという程実感しているはずなのに、それでも比較的最近の「新世紀エヴァンゲリオン」ですら、1995年の作品で、劇中の物語は2015年になっています。
そして、相変わらず、実際の2015年は、劇中のモノとはだいぶ進み具合が違います……

これらの作品は、作成時点では、それなりの自信や根拠をもって、

「さすがに今から〇〇年後には、このくらいのコトはできてるだろう」

と考えられているはずだと思うのですが、その予想が、このように、ことごとく外れる訳です。

そのくらい、未来予想は難しい。
それでもさすがに、22世紀にはネコ型ロボットはできてるだろうと思っていますが(笑)。

とにかく、このように、誰しもが未来を見据えるのが苦手な中で、数年、もしくは、数十年の単位で自分の将来や社会の動向を捉え、今後の行動計画を立て、それにそって着実に生きている方は、実際に何人もいらっしゃいます。

実に素晴らしいと思いますし、ぜひ、ボクもマネしたいので、何度も、あれこれツールを使って試してみるのですが、やはり、ウマくいきません。
そして、それは仕事についても同様なので(← 深刻)、いつも、周りに迷惑をかけてしまいます……

そこで、最近では開き直って、

「先のコトは考えず、目の前に現れたモノに集中し、それを確実にこなしていけばよい」

と思うようにしているのですが、その考え方自体は間違ってはいないモノの、仕事では、さすがに全く先のコトを事前に準備しないという訳にもいきません……

しかし、実行できるかどうかは能力や意志の強さが大きく関係するとはいえ、それでも、まずは目的地や計画を定めなければ、そもそも、自分が進んでいるのかどうかすら分かりません。

なにごとも、練習すれば、ウマくできるようにな(る時もあ)ります。
何度失敗しても挑戦していれば、いつしか、自分で立てた計画どおりに進めていけるようになるかもしれません。

それを信じて、今日もまた、新たなツールを試すのです……(泣)

第23回 「若さ」は善か? open

みなさん、こんにちは。
近年は、開催までのドタバタが一種の“お約束”であるオリンピックですが、それでも、さすがに大丈夫か!?と思ってしまうshimanyです。

さて、少し前ですが、小泉今日子さんの、「アンチエイジングという言葉が大嫌い」という発言が、大きな共感を得ているという記事を見かけました。

おそらく、大半のヒトが、

「そりゃ、キョンキョンなら、アンチする必要もないやろ」

と思ったと思いますが(笑)、それはともかく、他にも、自分の写真の修正を拒否するモデルさんのハナシや、今年88歳の現役ファッションモデルであるダフネ・セルフさんの本が話題になる等、これまでの、少し極端な「若さ信仰」に対するカウンタが、あちこちで起こっているような気がします。

とはいえ、一般的には、まだまだ多くのヒトが「若さ」にとらわれているのではないでしょうか。

例えば、つい先日、職場で少し歳上の女性職員さんに、

「お若い頃のアイドルって、”新御三家”ですか、それとも、オリジナルの”御三家”の方ですか?」

と、なにげなく聞いたトコロ、

「私はそんな歳じゃないわっ!!」

と、ガチギレされました。
これまで、どんなに職務上でヘマしても、一度も怒られたコトないのに……

また、臨時職員として、大学を出たばかりくらいの女性スタッフがボクの係に配属になった時は、周りの職員さんに、

「若いコが来て、ウレしいでしょう」

とか、

「いつもと違って(← 失礼)張り切っている」

とか、散々言われました。

これらは立派なセクハラだと思うのですが(苦笑)、ボクにとっては年齢より、おだやかさや“品”の方がずっと大事な要素なので、むしろ、自分より歳上の職員さんに憧れの女性職員さんはいたのですが(無関係)、やはり、一般的には、女性の「若さ」には非常に高い価値があるコトになっているだなと感じた一件です。

ところで、なぜかボクも、たまに「若く見える」と言われるコトがあります。

「見える」というのは、「実際はそうじゃない」と言われている訳ですが(笑)、本当に若かった”子ども”の時分から、ず〜っと「老けてる」と言われ続けて育ってきたので、今さらそんなコトを言われても、にわかには信じられません(笑)。

で、ウレしいかと言われると、まぁ、「老けてますね」と言われるよりはいいかとは思いますが(普通、言わない)、一方で、年相応に貫禄がある(ありすぎる)同期に会うにつけ、自分は全く成長していないなと恥ずかしくもなります。

ある雑誌の表紙に、

「男の顔は履歴書、女の顔は請求書」

とありましたが、後段の真偽はともかく(苦笑)、やはり、なにごとも、年相応がいいんじゃないかなと思います。

……が、福山雅治さんがボクより歳上だったり、B'zの稲葉さんが50歳を過ぎていると思うと、いささか途方に暮れてしまいます(笑)。
また、少し方向が違うモノの、例の盛り土問題で、石原慎太郎さんが84歳と知り、やはり、世の中全体的に、”年齢感”がだいぶ変わってきているなと感じます。

DJの佐藤弘樹さんの『賢人の雑学』という本を読んでいると、

「アメリカ社会がanti-aging(アンチエイジング)に血眼になるのは、力の衰えた老いは恐怖以外の何ものでもないからではないか」

という一節があったのですが、必要以上に若さを崇拝するのは、老いに対する”恐れ”の裏返しなんですね。

そして、老いを“恐怖”と思ってしまうと、どうしても抵抗したり、逆に、逃げ出したくなります。
それが“アンチ”という姿勢なのだと思いますが、そういった態度で老いに臨めば臨むほど、かえってそこに自分を追い込んでしまうような気がします。

そこで、特殊なオイルや、いかにもスゴそうな貝の成分なんかに頼るより(笑)、「気が若い」というコトバがあるように、まずは、何よりキモチの持ちようだと思います。

とにかく、「老いるのがイヤだ」と、老い自体に意識を向けて手立てを講じるのではなく、老いを忘れるくらい、「自分はこれがしたいんだ!」というモノ自体に意識を向ける方が、ずっとよいのではないでしょうか。

だって、それさえできれば、たとえ、歳をとってたって、いいじゃない!!

第22回 「信じる」は美しいか? open

みなさん、こんにちは。
日本において、「私は日本人です」という日本人はあまりいないんじゃないかなと思うshimanyです。

さて、あるヒトが、他のヒトを「信じる」という表現があります。
「お前を信じているぞ」とか「あなたを信じているわ」とか(同じだけど)。

これだけ聞いていると、何というか、実に美しいというか、いかにも「キズナ」みたいな感じで、とてもステキなコトのように思えます。

しかし、果たしてそうでしょうか?
……と、ここでいつものように思うのです(笑)。

まぁ、なんでしょう、それが、何もない時はいいのです。
「信じる」というのは、ある意味、無根拠に、そして、全面的に自分を相手に託すコトですから、究極の「信頼」のカタチです。
「信じる」と言った方だけでなく、言われた方も、大変、名誉なコトであるはずです。

ただ、その「信頼」が破られた時、例えば、友人が覚醒剤をやっていたコトが判明したりとか(あまり、ありませんが)、仕事を任せていた部下が納期に遅れたりとか(たまに、ありますが)、はたまた子どもが万引で捕まったりとか(ないコトを祈りますが(笑))した時、「あなたを信じてた『のに』」と言ってしまわないでしょうか?

以前から感じていたのですが、本来、自分が責任をとらなくてはいけない状況に対しても、「信じていた」と言うと、突然、自分は「被害者」になれるんですね。
「信じていたのに、裏切られた」と。

しかし、締め切りに遅れた部下の例で言えば、部下を信じるのは大切なコトですが、それとは別に、リスク・ヘッジというか、もし、部下が間に合わなかった場合にどうするかという手を打っておくのも、上司の大切な仕事ですよね。

もちろん、締め切りのだいぶ前から、間に合わなかった場合の準備をしている上司を見れば、

「ボクのコトを信じてないんですか!」

と言いたくなるかもしれませんが(今どき、そんな鼻っ柱の強い若者もいないかもしれませんが(笑))、ただ、それは、信じているとかいないとかとは別の問題だと思うのです。

『なぜ、あなたの仕事は終わらないのか』(中島聡/文響社)という大変耳の痛いタイトルの本を読んでいると(笑)、上司が部下に、ある時刻に花束を準備してくれと頼んでおいたのに、それが、花屋のミスで間に合わなかった場面で、

「花屋にはちゃんと電話しました!」

と言い訳する部下に対し、

「あなたに頼んだのは、あくまでも、ある時間までに花束を準備してくれというコトであって、花屋さんに注文(電話)をしてくれというコトではない」

と言う例が書かれていました。

なるほど。
「花屋を信じていたんです!」と言われても……というコトです(笑)。

話が脇道に逸れましたが、ある対象を全面的に信頼して任せるというのは、ある意味ではいいコトなのかも知れませんが、逆に、それをエクスキューズにするのは、非常に無責任で、卑怯ですらあると思うのです。

隣国に攻めて来られました。
隣国はそんなコトをしないと信じていたので、何も準備をしていなかったため、簡単に攻撃を受けました。

もう、大きな地震はこないと信じていました。
もう、これ以上の不況はないと、信じていました。
あのヒトは、絶対そんなコトをしないと、信じていました。

……なんか、非常に危うい感じがしませんか?

「じゃあ、常になんでも疑ってかかれというコトか!?」と怒られそうですが、う〜む、ある意味、そうなのかもしれません(笑)。
少なくとも、「信じている」を理由に何も手を打たないコトは、決して美しかったり、男気あふれるコトでもないと思います。
なんらかの準備か、最低でも、それが破られた時の心づもりはしておいた方がよいのではないでしょうか。

つまらない人間ですね(笑)。

しかし、まぁ、そうであるにもかかわらず、自分を捨ててでも、何かを全面的に信じてしまいたくなる時はあるでしょうし、自分を捨てているが故に、全てを引き受ける覚悟ができている時もあると思います。

それゆえに、「信仰」というモノが、ある意味で非常に尊く、そして、ある意味で、非常に危険なモノになる可能性があるのかなと思ったりするのです。

第21回 モノは見方か? open

みなさん、こんにちは。?先日、突然、「ダメよ~ダメダメ」と、口をついて出てきたshimanyです。?
さて、よく、「モノは見方次第だ」と言われたりします。

アレです、同じコップに入っている水を見ても、

「たったこれだけしか入っていないのか……」

と思うヒトもいれば、

「まだ、こんなに入ってる!」

と思うヒトもいるというハナシ。

つまり、全く同じモノを見ていても、もう少し言うと、全く同じ”世界”に生きていても、各人の捉え方によって、それぞれのヒトが住んでいる世界は、実は、全く違うモノだという訳です。

たとえば、同じ今の日本に住んでいても、

「ブラック企業や貧困や格差や引きこもりや自殺が多発し、原発もいつ爆発するか分からない。いつテロに巻き込まれるかもしれないし、もうすぐ隣国と戦争になるだろう。日本はなんてイヤな国なんだろう」

と思っているヒトもいれば、

「あぁ~とりあえず身のキケンはないし、モノは溢れているし、食べるモノにも困らない。日本はなんていい国だろう……」

と思っているヒトもいると思います。

傍から見れば、確かにどちらも正しい面がある訳ですが、普通、そんな、まったく相反する世界のいずれも正しいなんて思えないですよね。
そして当然、誰しもが自分の見方、自分の住んでいる世界こそが本当の世界だと思っていまずが、実は、ホンの隣にいるヒトでも、全く違う世界に住んでいるのです。

ボクが、この件について分かりやすい例えだなぁと思ったハナシがあって、確か、青森だったと思いますが、ある年のヒドい台風で、リンゴ園のリンゴがほとんど収穫前に木から落ちてしまい、売り物にならなくなったそうです。

その情景を見て呆然とする農家の方が多い中、あるヒトが、

「これほどの台風でも落ちなかったリンゴなのだから、”落ちないリンゴ”として、受験生に売り出したらどうだろう」

と言ったそうです。
で、結局、残りのリンゴは1個1000円で売れ、見事にこの悲惨な状況を救ったというのです。

確かに、大変な状況には変わりない訳ですが、こんな見方の転換ができるなんて、素晴らしいですね。

他にも、「結婚したら、自由がなくなるよなぁ」と思っているヒトが、未婚者・既婚者含めて多くいらっしゃると思いますが(笑)、『困難な結婚』(内田樹著/アルテスパブリッシング)という本を読んでいると(なんで、そんなタイトルの本を読んでるんだ?)、こんな一節が。

 結婚すると「それまで独身のときにできたこと」の多くができなくなります。(中略)結婚はしない(中略)という生き方をすれば制約はなくなります。
 でも、そんな生き方をして何が楽しいのか、僕にはわかりません。誰にも制約されない生き方って、言い換えれば「誰からも頼みにされない生き方」ということですよね。(略)それって、要するに「いてもいなくてもどうでもいい人」になるということです。

う~む……
そういう見方もあるのか……(笑)

ただ、自分の見方というのは非常に強固なので、なかなか他の見方があったり、より(自分にとって)正しい見方があるなんて思えないのが普通だと思います。

しかも、何か自分にとってマイナスなコトが起こった際、この理論を使おうとしても、「ポジティブ・シンキング」と言えば聞こえはいいモノの、どうも、ボクの場合、単なる「負け惜しみ」になってしまうコトがほとんどです(苦笑)。

そのあたりの違いというか、自分をムリやり納得させるのではなく、心の底から物事の明るい面に目を向け、楽しく、どんなモノゴトにも対峙していけたらなと思います。

で、実は、この手の(ちょっと、スピな)ハナシをよく読んでいた当時、東日本大震災が起こりました。

その時こそ、この理論をあてはめ、この大惨事を、どうにか見方を変えて素晴らしいモノにできないかといろいろ考えてみたのですが、やはり、どうしてもウマくいきませんでした。

「当事者ではない」というのがかえってそうさせているのかもしれませんが、上記のリンゴ園のように、心の底から、「なるほど!そういう見方をすればよかったのか!」と思える日が来るのでしょうか……

第20回 「解散」する権利 open

みなさん、こんにちは。
何かで見る度に、ネイマールの年齢を疑ってしまうshimanyです。

さて、そのネイマールが躍動したオリンピックの間に、日本では、「国民的アイドルグループ」(定義不明)の解散が発表されました。

ボク自身は、そのグループとは、ごくごく一般的な付き合い(?)だったので、特にショックとか、急いでCDを買わな!といったキモチも起こりませんでしたが(笑)、それでも、これだけ連日何かしらの報道があると、ついつい、その内のいくつかは見てしまいます。

その中で少し気になったのが、「メンバ間に確執があった」とか、「以前(15年前?)から既に関係が壊れていた」といったモノが解散の理由として上げられていた点。

何気なく見ていると、つい見過ごしてしまいますが、よく考えると、これっておかしくないでしょうか?

というのも、よく知りませんが、ジャニーズのグループの場合、同級生や、地元の仲間と一緒にデビューしたお笑いコンビやバンド等とは違い、

「ユーとユー、組んじゃいなよ」

といった感じで、社長さん(以外もあるのかもしれませんが)の一存で、事務所に所属している大多数の中からグループのメンバが決められるんですよね?

これって、会社で言ったら、まさに、社長自らの「人事」ですし、そこでできたグループは、会社で言ったら(その規模から)「係」なのかなと思います。

で、普通に考えてみると、係内の全員が仲がいいというコトは、まぁ、そうそうあるコトではないでしょうし、逆にその中で、ある係員同士に確執があるなんて、こちらも、それほど珍しいコトではないと思います。

そんな中、その係員達の都合で、社長自らが頼んでいる「25周年事業」を断るなんて、普通の会社では到底考えられませんし、ましてや、係員の方から、

「あいつとは一緒にできないから、この係を解散します」

なんて……

しかも、その上で、全員、会社には残るという(苦笑)。

もちろん上記のとおり、たまに見かける報道(の割に、詳しいですが(笑))に依存した意見なので、実際はだいぶ違うとは思いますが、しかし、事務所という「会社」に所属し、そこの社員として仕事をしているのであれば、自分たちの気持ちや意見はともかく、会社が指示した人事の中で、会社が要求する仕事を遂行していくというのは、ある意味、当然だと思うのですが、いかがでしょうか?

なのに、今回の解散については、「奴隷制からの解放、おめでとう!」といった表現すら見かけます。

う〜む……

ボクも今、あまり自分のやりたい仕事をしている訳ではないですし、いうても係の「リーダ」なので、自分の意志で係を解散してもよいのでしょうか?(笑)

みなさん、会社で自分と同じ部署になるヒトの顔ぶれなんて、もちろん、自分では決められないですし、その与えられたメンバの中で、いかにウマくやっていき、自分のチカラを発揮するかとガンバっていますよね。

そういった中で、たまたま大の親友になるヒトもいるでしょうが、大抵は、職場でしか付き合いがないヒトがほとんどだと思います。

それが、芸能人のグループなると、「お互いの連絡先を知らない」とか、「光一くんと剛くんは、プライベートでは一度も一緒に遊びにいったコトはない」(よく知りませんが)とか言った途端に、「え〜っ!」とか言われたりします。
また、自分が所属しているグループではなく、他のグループのメンバとよく遊ぶなんていう話が出ると、これもこれで「え~っ!」とか言われます(よく知りませんが)。

しかし、やはり一般の職場なら、同じ係のヒトと遊びに行ったコトがないなんていくらでもありますし(少なくとも、ボクは今の係で、個人的に遊びに行ったヒトは一人もいません)、逆に、他の係のヒトと仲良くなるなんて、それこそいくらでもあると思うのですが……

なんなんでしょう。

そりゃ、仲が悪いよりはいい方が良いかもしれませんが、個人的には、才能で結びついていて、仕事として、我々を楽しませてくれる作品を提供してくれるのであれば、それで十分だと思います。
しかし、大半のヒト達は、自分たちに提供されているものが「仕事」の成果物、もうちょっというと、「お金のため」と思いたくないんですね。

まぁ、分からなくもないですが、だったら、何ならいいんでしょう?

善意?

なら、まず、この「唐コミ」を!(笑)

第19回 「ブレない」は褒めコトバか? open

みなさん、こんにちは。
普通の不倫と「ゲス不倫」の違いを、ちょっとだけ知りたいshimanyです。

さて、「ブレる」「ブレない」というコトバがあります。

ボクは、このコトバを聞くと、つい、

「あんたはブレている!」
「いや、ブレてない!」
「い〜や、ブレてる!!」

と見苦しく、かつ、子どものように罵り合う政治家の姿が目に浮かびますが(苦笑)、このように、どちらかと言うと、「ブレる」は、他人を批判する時に使われる、つまり、好ましくないコトだと思われているようです。

一方、好意的に捉えられがちな「ブレない」は、おそらく、「首尾一貫している」とか、「以前と全く同じコトを続ける」という意味だと思うのですが、果たしてそれは、それ程いいコトでしょうか?

たとえば、某野党のように、「反与党」という点で全くブレないと、与党が「消費税アップ」と言えば「消費税アップ反対!」と叫び、逆に、与党が「消費税アップ延長」と言えば、「なんで消費税をアップしないんだ!」と主張するコトになり、その結果、姿勢はブレていないのに、言っているコトは真反対という、なんだかよく分からないコトになってしまいます。

まぁ、それはともかく(笑)、さすがに、ついさっき言ったコトとスグに真反対のコトを指示されたり(職場でしばしば散見さる)、以前、ボクが絶賛していた時には否定していたはずなのに、いつの間にか自分も同じコトをしている(○○内でしばしば散見される(笑))というのも対処に困りますが、一方で、これだけ変化が早く、そして、大きい世の中になると、常に周りの状況を見極め、その時点で自分にとっての最適な行動や対応を選択する、つまり、ある意味で「ブレる」のは、むしろ、積極的に推奨されるべきコトなのではないでしょうか。

かつて、ダーウィンが言ったといわれる(実は言ってない、ともいわれる(笑))、

「最も強いモノが生き残るのではなく、最も変化したモノが生き残る」

というのも、そのあたりのコトを言っているのかもしれません。

ただ、その際に難しいのは、ただ変わればいいのではなく、「最適に」変わらなければいけないという点です。
では、どうすれば、最適に「ブレる」コトができるのでしょうか?

それは、結局、自分なりの「目的」や「目標」をしっかり定め、常にそこに見ているかどうかだと思います。

冒頭で、冗談のように書きましたが、「反○○」のような他人の姿勢に依存するようなモノではなく、自分がどうしたいか、どうなりたいかといったコトを目的や目標として常に意識していれば、その時点の自分の環境や与えられている条件に応じて、自分のやるべきコトは、自ずと変わってくると思います。

さらに、加えて重要なのは、何事も「やってみないと分からない」という点です。

「痩せたい」という目的の元、ある食品を一時期尋常じゃない量摂取する。そして、しばらくすると、それはなかったコトかのように、今度はちょっと変わった器具を使った運動を集中的にやる。そして、また、今度はそれもなかったコトかのように……

う〜む、ブレまくりですが(笑)、しかし、こうやって実際にいろいろ試してみないと、何が自分に合っているのかは、いつまで経っても分かりません(ただ、それ相応のコストはかかりますが(笑))。
たとえそれが、ハタから見て、ブレまくっていたとしてもいいじゃないですか。
自分の幸せは、誰も代わりに達成してくれないのです(これをかつて、ボクの父親は、「面倒くさいから、お父さんの代わりにトイレに行ってきて」という表現で、子どもだったボクに諭しました)。

……という訳で、いろいろブレまくりのshimanyですが(笑)、一方で、「継続がチカラなり」というコトも強く実感しています。

ここらへんが、実に難しい(苦笑)。

目的のために、いろいろ試したり方向転換するコトに躊躇はないのですが、一方で、それが飽き性の言い訳になっているのも事実。

『ネットで成功しているのは〈やめない人たち〉である』(いしたに まさき/著)という本がありますし、「成功するまで続ければ、失敗はない」とも言われます。
何事も、ある程度続けてみないと、スグに結果が出ないのも事実です。

……う〜む、結局、「ブレる」と「ブレない」、どっちがいいんだ!?

今回の原稿の趣旨自体が、ブレまくってますね(笑)。

第18回 なぜ、「勉強」をするのか open

みなさん、こんにちは。
実に久しぶりに「厚化粧」というコトバを聞いたshimanyです。

さて、幸い……かどうかは分かりませんが、まだ、我が家では聞かれていないモノの、子ども達の定番の質問に、「なんで勉強しなくちゃいけないの?」というモノがあります。

少し前の時代なら、「勉強して、いい大学に入って、いい会社に入るためだよ」とか、そのモノズバリ、「エラくなるためだよ」という回答もあったのかもしれませんが、今や、全くリアリティがありません(と言うか、当時からもそうだったと思いますが)。

また、少し気が効いているのだと、「学ぶ楽しさを知るためだよ」なんていうのもあるかもしれませんが、十分に他の楽しみを知っている現代の子ども達には、勉強の楽しみは「屋上屋」なのかもしれません(笑)。

そこで……でもないのですが、先日、自分の体験を振り返っているウチに、勉強に限らず、いろんなコトを知ったり、技術を学んで身につけたりする自分なりの理由が見つかりました。

それは、「自由になるため」です。

たとえば、実際、仕事上で感じたのですが、現在の法律や組織の規程はもちろん、もっと身近なトコロだと、組織内で許可をもらうため書類の作り方や予算の執行方法等を知らないと、どんなに素晴らしいアイディアを思いついても、それをどうやって実現したらいいか分かりません。

また、何かをする時だけではなく、逆に、それができないという判断も、知識が多い程、早く確実にできます(そして、ムダな時間を使わずに済みます)。

オトナの場合は「勉強」という言い方はしないかもしれませんが、とにかく、知識が多ければ多いほど、"自由に"自分のしたいコトができるという訳です。

また、知識だけでなく、「技術」についても同様です。

ごく身近な例ですが(笑)、少し前に、友人が結婚する際、奥さんに対して、「どんなにヒドい夫婦ゲンカをしても、ごはんだけは作ってくれ」とお願いしたというハナシを聞きました。

おそらく、その友人は料理があまり得意ではない(できない?)のだと思いますが、その「技術」がないがゆえに、どんなに自分に理があり、有利なポジショニングの夫婦ゲンカだったとしても、その後に、奥さんにごはんを作ってもらえば、どうしても、弱い立場になってしまいます(まぁ、それが、仲直りのきっかけになるかもしれませんが(笑))。

……と、エラそうに言っていますが、かく言う自分も、幸い、食事こそ自分で作れるモノの、クルマの運転が苦手なので、家族で出かける際にはヨメの運転に頼らざるを得ず、この点で、いつも負い目を感じています……

このように、少しでも自分でできるコト、つまり"技術"が増えれば、家庭内でも(笑)自由度が増します(クルマの運転なんて、それこそ、自由の象徴ですね)。

勉強をするのは、いろんな知識や技術を身につけ、自分の好きなコトを、好きなようにやるため。
つまり、「自由」になるため、というのが自分なりの結論なのですが、まぁ、そもそも自由になるコト自体に魅力を感じていなければ、これも説得力がないですね(笑)。

……と、ちょうどこんな記事を書こうと思っていた矢先に、エラいモノで、偶然、知人のFBで、こんな記事を知りました。

「子供に「何で勉強するの?」と聞かれたら、どう答えますか?」
(http://dearlife.biz/s-life/%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6/%E3%80%8C%E4%BD%95%E3%81%A7%E5%8B%89%E5%BC%B7%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%EF%BC%9F%E3%80%8D%E3%81%A8%E8%81%9E%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%A9%E3%81%86%E7%AD%94%E3%81%88%E3%82%8B%EF%BC%9F/)

う〜む……
世間的にはこうなんですね……

と言うか、こんなにじっくりハナシ合わないと勉強しないというのが、ちょっとした驚きでした。
自分が子どもの頃は、知らないコトを、毎日、タダで教えてくれるなんて、なんて、ラッキィなんだろうと思っていたので(笑)。

ただ、ムリヤリやらされているというのが苦痛なのかもしれません。

確かに、小学校低学年のムスコの授業参観等ではまだそれほど感じませんが、仕事で、高校生の授業の手伝い等をしていると、彼等はなんて不自由なんだろうと思ってしまいます。

そんな状況に慣れさせ、従順な人材を育てるのが教育だという皮肉な見方もあるかもしれませんが(苦笑)、やはり、そこから少しでも早く脱出し、自分でなんでもできるようなるためにも、知識や技術をできるだけ多く身につけるコトが必要なのかなと思います。

第17回 捨てて、活かす。 open

みなさん、こんにちは。
大きなお世話ながら、いくらなんでももう少し他に候補はいるんじゃないか……と思うshimanyです。

さて、スティーブ・ジョブスが最も有名だと思いますが、(少なくとも、人前に出る時は)いつも同じ服装という方は、いわゆる"クリエイタ"の方達を中心に、結構いらっしゃいます。

ボクが何かでご自身がそう表明されているのを知っているだけでも、デザイナの水野学さんや佐藤オオキさん、ハイパーメディア・クリエイタ(て、なんだ?)の高城剛さん、さらに、先日の「プロフェッショナル」で、チームラボの猪子寿之さんは、「全く同じTシャツを30枚持っている(そして、それを毎日着ている)」とおっしゃっていました。
また、最近、メディアを通じて小山薫堂さんを見ると、まず、青のギンガムチェックのシャツを着ておられます。

それぞれの方がおっしゃっているのを見ると、「(白いシャツだと)税関を通りやすい」とか、「クライアントに対して、キチットした印象を与えられる」とか、そのものズバリ、「面倒くさいから」という理由もありますが(笑)、以前から、これだけ同じような方がいるのは、何か他にも共通した理由があるんじゃないかと思っていました。

で、なんとなく考えた理由は、毎日、服装を同じモノにするのは、「今日のコーデはウマくいったゼ!」という日はめちゃくちゃテンションが上がる反面、失敗した時に(笑)、終日、ブルーなキブンで過ごすリスクを減らし、常に気分を一定に保つためではないかなというコトでした。

そういった意味もあるかもしれませんが、『自分を操る超集中力』(メンタリストDaiGo/著)という本を読んでいて、もしかしたら、もう少し違う理由なのかなという気もしてきました。

この本によると、人間は、思考や感情をコントロールする「ウィルパワー」と呼ばれるチカラを持っているのですが、このチカラは総量が決まっていて、選択や決断を伴う「集中力」を使う度に、だんだん減ってくるのだそうです。

そして、ウィルパワーには、仕事用やプライベート用という区別がある訳ではなく、出どころはひとつなので、日常の営みでウィルパワーをたくさん使ってしまうと、いざ大切な仕事の場面で、集中力が既に底をついているという事態が発生するというのです。

で、より多くのモノゴトに集中しようとすれば、ウィルパワーを増やすか、節約するしかないのですが、増やすのには、それなりの訓練や時間が必要です。
そのため、まずはウィルパワーを節約する方が現実的なのですが、そのためには、日々の生活から、なるべく選択や決断の回数を減らし、ウィルパワーの消耗を減らすコトが重要だというコトです。

実際、この本にもジョブスの服装のハナシが出てくるのですが、一般的なヒトより、集中してアイディアを出さなくてはいけないクリエータの方達は、無意識にせよ、ウィルパワーを節約すべく、毎日、全く同じ服装にして、朝からできるだけ「選択と決断」の回数を減らすようにしているのかなと思った次第。

さて、この「毎日、同じコトを繰り返して判断の回数を減らす」というコトを進めると、例えば他にも、ごはんのメニューを常に一緒にしてしまう等が考えられると思います。
まぁ、さすがに全食は味気ないですから(笑)、たとえば、ランチだけとか……

……というトコロで思い出したのですが、イチローさんは、シーズン中、毎日、ランチに奥さんお手製のカレーを食べるコトで一時有名になりましたよね(今は違うらしいですが)。
その他にも、イチローさんは、毎日、同じコトを同じように繰り返す「ルーチン」が有名ですが、これも、日々の些細な選択と決断を減らすコトでウィルパワーの消耗を少なしく、可能な限り試合に集中力を残しておくための工夫なのかもしれません。

ボクは日々、同じコトを繰り返していると、脳がサボって働かなくなるから、常に新しい刺激を与えて活性化しないといけないと思っていたのですが、いろいろウマくいかないのは、どうも、それが原因だったようです(笑)。

ここぞという時にウィルパワーを使うため、それほど必要がない時は、節約する。
たとえ、「あのヒト、毎日、同じ服着てる……」と陰口をきかれるくらい、そのためには気にしない。

……うん。
ボクには十分、素質アリですね(笑)。

第16回 「怒り」はコントロールできるか? open

みなさん、こんにちは。
このたび、漸く「コスプレイャ」という職業があるコトを知ったshimanyです。

さて、日頃から、職場の同僚に、

「もしかして、カルシウム不足ですか?」

と聞かれるくらい、怒りっぽいのを自覚しているボクですが(苦笑)、そうは言っても、普通、「怒り」というと、外部からの"刺激"に反応して否応なく起きてしまう感情なので、自分ではどうしようもないモノだと思っていませんか?

しかし、少し前に、日本に「アドラー心理学」ブームを巻き起こしたベストセラ『嫌われる勇気』(岸見 一郎、古賀 史健/著)によると、人間は、そのように、いわば"受動的に"怒っているのではなく、ある目的によって、「自分が怒りたいから怒る」のだそうです。

いやいやいや、そんなはずはないやろう!オレは、相手の態度や言動で、ムリから怒らされとんネン!と思わず関西弁で怒ってしまいますが(笑)、その本で出されていた例を見て、思わず唸ってしまいました。

そこで出されていた例というのは、母親とムスメが大声を上げてケンカしていたトコロに、電話がかかってきたというのです。
母親は、まだ、怒りを含んだ口調で受話器を取ったのですが、その電話の相手がムスメの担任教師だと分かった瞬間、声色が優しく、丁寧なモノになります。
で、5分程普通にしゃべり、その電話が終わって受話器を置いた瞬間、母親はまた、先程と同じテンションの怒りでムスメに怒鳴り始めたというのです。

う〜む……あり過ぎ(笑)。

実に見事な例ですが、もちろん、自分にも同じようなコトは多々ありますし、他でも、似たような例はいくらでもありそうです。
そう考えると、確かに、怒りは「出し入れ自由」な感情のようです。

確かに、過去に自分が怒ってしまった例を振り返ってみれば、大抵の場合は、怒りというカタチをとらず、穏やかに対応するコトは可能だったと思います。

というか、そもそも怒る場面というのは、究極的には、自分(の主張)が通らない時だと思うので、だったら、まずは、しっかりと理由や道理を相手に説明し、自分の主張や、やりたいコトを納得してもらうよう丁寧に話す方が目的は達成しやすいはずです。

しかし、そうしないのは、怒らないで対応するのが、手間がかかったり、面倒くさかったり、場合によっては、なぜか「負け」と思ったり、相手に屈服するように感じてしまうからではないでしょうか。

……やはり、考え方自体に問題がありますね(笑)。

そこには、中途半端なプライドや沽券(同じ?)といった、ある意味、どうでもいいモノが潜んでいるようです。
事実、何ごとについても怒らないヒトというのは、我々とは違い(ボクだけ?(笑))、もっと自分に対して、確固たる自信があるように見えます。

いずれにしても、やはり、人間は怒りたいから怒っているのです。

それは、上述したように、怒るコトによってなんらかの目的(相手に言うコトを聞かせよう等)を達成しようとする場合もありますが、もっとやっかいなのは、怒り自体に、ある種の"キモチよさ"があるコトです(怒りは負の感情だと思われますが、あえて"怒りにいく"場合もあるコトを考えると、やはり、そこに一種の"快楽"があるのは否定できないと思います)。

『怒らないこと』(アルボムッレ・スマナサーラ/著)という本は、怒りに対する大変多くの示唆に富む本で、初めて読んだ時はかなり衝撃を受けましたが、その中には、ハッキリ「怒るのはバカのすることだ」「怒るのは徹底的に無知な人だ」「『私は怒りました』などというのは、『私はバカです』と触れ回るようなものです」と書かれています(笑)。

とにかく、その本にも書かれているとおり、「怒るということは、自分で自分を燃やし始めたということ」なのです。
少なくとも、怒りは自分の心がけ一つで出し入れ自由な感情だというコトは、肝に銘じておきたいトコロです。

ところで、一方の我が家族。

学童保育の先生によると、ムスコは、同級生の女のコ達から、

「Kくんは、どうして、いつもそんなに穏やかでいられるの?」

と聞かれているそうですし、また、ヨメに関しては、職場でしょっちゅう、

「どうしてSさんは、そんなに怒らないの?」

と褒められているそうです。

実に羨ましい限りですが、できれば、ぜひ、それを、家庭内でも……

第15回 自分の声を聞く open

みなさん、こんにちは。
最近、近所に、猛烈な勢いでビルが建設されているshimanyです。

さて、ウチの職場には、仕事ができすぎて、普段からリスペクトしまくりの同僚がいます。

さらにその同僚は、ただ仕事ができるだけでなく、非常に責任感が強く「ガンバり屋さん」なので、多少の体調不良等では仕事を休んだりしません(ボクと違って(笑))。

この年度末から年度初めにかけて、横目に見てても、本当にハードワークの日々が続き、さらに、明らかにシンドそうでも仕事に出てこられているので、「大丈夫かなぁ」と密かに思っていたトコロ、先日、ついに仕事を休まれました。

で、その理由が、「動けなくなった」から。

詳しくはお聞きしていないのですが、どうも、朝、起きた時に筋を違えたか何かで、少しカラダを動かしただけで激痛が走り、また、姿勢によっては、気道が確保できない(おいおい)程の状態で、カラダを起こすコトすらできなかったそうです。

幸い、数日で出てこられましたが(それでも、かなりムリをして、早めに出てこられた印象)、そのハナシを聞き、つくづく、カラダはスゴいなと思った次第。

というのも、その同僚も、おそらく、そのような状態になる前から、少しずつ、カラダは、「休んでくれ?休んでくれ?」という何らかサインを出していたと思うのですが、それを無視していたトコロ、ついに、本人を強制的に動けなくし、横になって休ませる方法を採ったのだと思います。

……と思っていた矢先に、今度は、自分が動けなくなってしまいました(笑)。

ボクはその同僚とは違い、日頃から公私共に全くムリをしませんが(おいおい)、それでも、知らない内に疲れがたまっていたのか(疲れるようなコトは何もしていないのですが(笑))、ある日突然、普段全く出ない熱が出て、明らかに体調がおかしくなりました。

で、週末になり、ほとんど回復したので、通常どおり子ども達と遊んでいるうち、また、様子がおかしくなってきて少し寝ていると、横になっている間は全く問題ないのですが、立ち上がろうとすると、ヒドイ目眩で吐き気がし(実際に、嘔いてしまいました)、全く起き上がれなくなり、そのまま寝てるしかないという状態になりました。

なるほど、カラダは、アルジを強制的に寝かすために、筋を痛める等の外科的な方法だけでなく、こういった、内科的な方法も持っているのかと、妙に感心してしまいました(笑)。

「体調管理」と言われますが、おそらく、ボクの場合も、カラダは、その前から、少しづつサインを出していたのだと思います。
しかし、普段、健康だと思っている時は、ただでさえ聞こえにくいその声に耳を貸さず、たまに聞こえても、「まぁ、まだ大丈夫だろう」とムシしてしまいがちです。

すると、そのうち、カラダの方が耐えかねて、強制シャットダウンに入るという……(笑)

前回は、「自分の意志でカラダはどうにかなる」というハナシを書きましたが、実際は、逆にカラダの言うコトをしっかりと聞き、大事にしないと、いざという時に全くこちらの言うコトを聞いてくれません。
お互いに尊重して大事にし合おうというのは、何も、他人との間だけでなく、まず、自分の中でのコトなのだと気付かされた、苦くもありがたい経験でした(笑)。

で、思ったのですが、主に健康面だけでなく、もっと普通に、「内なる声」て、聞こえませんか?

……と、あまり真顔で言いすぎると、「オカルト」や「スピリチュアル」の分野になりそうですが(笑)、ボクの場合、「この仕事は、ボチボチ、手を付けておいた方がいいぞ」とか、「このお誘いは、早くヨメに言っておいた方がいいぞ」といった切実な声が自分の中でし、その声を無視していると、たいてい、その直後に、その仕事先から催促が入ったり、ヨメの予定が先に入ったりします(笑)。

もしかしたら、これが「直感」と言われるモノなのかもしれませんが、これまでの経験から、なんとなく、その声のとおりにしていれば、ウマくいくような気がします。

……なのに、できない……

自分でも不思議なのですが、なぜなのでしょう?
まぁ、それらの「声」って、大抵、自分にとってはメンドくさかったり、耳が痛いハナシなんですよね。

……単に、イヤなコトを、全部、後回しにしてるだけ?(笑)

第14回 自分のカラダなのだから open

みなさん、こんにちは。
「『アモーレ』が流行語大賞有力!」みたいな記事を見かけましたが、流行語って、そういうコトだったっけ?と思わずにはいられないshimanyです。

さて、全くの私ゴトですが(いつもですが)、ボクの高校時代の体重は、ほぼ一貫して65キロでした。

その後、大学時代は、一人暮らし(正確には、寮暮らし)の不摂生もあり、最終的には、72キロまで増えました。
ただ、高校時代は、毎日、走って通学したり、それこそ、朝から晩まで完全に規則正しい生活と健康的な食生活をしていた数値ですし、就職するまでは、ほぼその値が変わらなかったので(大学院にも行っていたので、20代後半まで)、これが、自分の適正体重なのだと思っていました。

しかし、その後、かなり遅目の就職をしたのですが、ここで完全な一人暮らしになり、さらに、小金まで入ってくるという"好条件"が整い、事態が急変しました。

それこそ、夕飯や休日は、際限のないビールと締めのラーメン・チャーハンという"豪遊"が続き、さらに、加齢による新陳代謝の鈍化も手伝ったのか、ごくまれに体重に乗ると、

「間違いだろう」

「たまたまだろう」

「誤差だろう(なんの?)」

と、そこに表示される数値を素直に直視できなくなりました。

そのうち、体重計に乗るコト自体が恐ろしくなり、完全に確認はしていませんが、最終的には、おそらく池中玄太さん(誰?)と同じ体重まで達していたと思います。

もちろん、さすがにこれはマズいと思う時もあり、たまにダイエットのマネごとのようなコトをした時期もあったのですが、特に差し迫った危機がある訳でもなく(十分、危機なのですが)、そもそも、体重なんてそんな簡単に落ちるわけがないという妙な達観があり、結局、似たような生活を続けていました。

しかし、その後、あるきっかけがあり、突然、体重を減らそうと思い立ちます。

で、なんとなく目標が必要だと考えたのですが、そりゃ、高校時代の65キロが理想だけど、本当に長い間キープしていた重体重ですし、さらに、その時に痩せるまでに必要だった期間が2ヶ月だったので、自分でも、絶対にそれは無理だと思っていました。

しかし、結論から言いますと、目標の2ヶ月は若干過ぎたモノの、なんと、最終的には、65キロ(実際には、それよりさらに低く)まで体重を落とせました(ちなみに、8年程経った今も、ほぼ、その体重を維持しています)。

この結果には、誰より、まず、自分が一番驚きました(笑)。

言うまでもないコトですが、その時は、厳しい食事制限や、激しい運動をした訳ではありません(そんなコト、ボクにできるはずがありません(笑))。
まぁ、それだけ不摂生と過食がたたっていて、ごく普通の食生活にしたら平均体重になったというだけのハナシなのですが(笑)、それでも、30代の後半に、約15キロを減らし、高校時代の体重に戻れるとは、自分自身、夢にも思っていませんでした。

この時に強く感じたのは、ことダイエットに限って言えば、やれリンゴだサランラップだ(?)といった方法論ではなく、「こうなりたい」「こうしたい」という意志や決意やイメージの方が、よっぽど大切だというコトです。
このコトは、よく、人生全般についても言われますが、他のヒトも巻き込む人生はともかく、少なくとも、自分自身のカラダのコトであれば、自分の"命令"で、ある程度、どうにかなるのではないかと思った次第。

ただ、確かに、「念じれば、自分のカラダはどうにかなる」という考え方は魅力的ですが、それがあまりに進み過ぎると、医学的な治療を全く受け付けずに、自分の"イメージ力"だけで、腫瘍や病気を完全になくせるといった類のハナシになりますが(スティーブ・ジョブスは、それで命を落としたようです)、そういった点には十分気をつけつつも、やはり、ある程度はそうなのかなとも思います(まさに、「病は気から」)。

まぁ、人間、ウマく行った時は、このようにエラそうに言うんですよね……(笑)

という訳で、現在、体重とは全く別の値で、これまたかなり悪化しているカラダの数値を、再び、高校時代のモノに戻そうと画策しています。

もちろん、特別な方法やトレーニングは一切なしの方向で(笑)。

もし、そちらがウマくいった暁には、今度はもっとエラそう書かせていただきます(笑)。

第13回 これが私の生きる道 open

みなさん、こんにちは。
歌丸師匠が「笑点」の第1回から出演していたというのを聞き、しばし遠い目になったshimanyです。

さて、新年度が始まって、しばらく経ちました。
みなさん、少しずつ新しい仕事に慣れてきた頃だと思います。

しかし、中には、

「なんで、オレがこんな仕事をしなくちゃならないんだ!」

とか、

「こんなコトをやるために、この会社に入ったんじゃない!」

と思っているヒトもいるかもしれません。

何を隠そう、かく言う自分も今の職場に就職した当時(もう、ずいぶん昔ですが)は、やりたいコトがあって図書館司書になったのに、全くその仕事をさせてもらえず、毎日、非常にツラい思いをしていました。

それでも、まぁ、さすがに1年目は仕方がないとは思っていましたが、その後も、毎年毎年、同じ部署への異動希望を出しているのにも関わらず、後から入ってきた後輩がその仕事に就いたり、自分は、ますます苦手だと思っている分野を担当させられたりして、「イヤだ、イヤだ」と思いながら仕事をしている内に、ついに、円形脱毛症になってしまいました。

幸い、その後、漸く希望の部署に配属され、いつの間にか円形脱毛症も治りましたが、"組織"にいる以上、こういったコトは仕方がないと思う反面、もう、二度とこんな思いはしたくないと感じました。

そういった場合、組織を飛び出して自分で仕事を始めるのが一番スッキリするのかもしれませんが(笑)、通常、なかなかそこまでは思い切れません。
では、どうやって自分の中で折り合いをつけていくのか?

少し前に、ラジオ(正確には、ポッドキャスト)で、映画監督の三池崇史さんが、こんな趣旨のコトをおっしゃっているのを聞きました。

「流れに逆らおうとすると、自分はむちゃくちゃシンドい割に、周りから見ると、同じトコロに止まっているように見える。しかし、流れに身を任せると、自分も楽な上に、遠くまで行ける」

う〜む、なるほど。
このハナシを聞いた時、まさに、自分のコトだと思いました。

就職当時は、周りから任される仕事に反発し、自分のやりたいコトばかりにこだわっていました。
そうすると、ツラいし、楽しくないし、成果も上がりません。

その後は、さすがに少しは人生経験も積み、だいぶ流れに身を任せられるようになりました。
それでも、まぁ、それほど遠くには行けていませんが(笑)、少なくとも、以前よりは精神的には随分とラクになりました。

そもそも、自分のコトは、意外と自分では分かっていません(若い内は、特にそうです)。
0 周りの、それこそ自分より人生経験の豊富な仲間や上司が見て判断してくれているのですから、それなりの理由や適性を考慮して、処遇を決めてくれていると思うのです(なぜなら、部下がチカラを発揮して戦力になってくれなければ、上司自身の死活問題になります)。

という訳で、もし、昔のボクのように、今の配属や役割分担に不満なヒトは、その辞表はとりあえず収め(笑)、まずは、しばらく流れに身を任せてから判断しても遅くないかもしれません。

……とは言え、職場には、ハタから見て、そのヒトの好きなコト、得意なコトを任され、思う存分、能力を発揮しているように見える同僚もいます。

ボクが見るに、そういうヒト達は、たとえ、最初にいささか不本意な部署に配属されても、そこから少しずつでも自分のチカラを周りに認めさせ、最終的に、そういったポジションを"自分で"獲得しているように思います。

そこまでのヤル気や努力を見せずに、単に、「自分はこれをやりたい」とか、「これさえヤラしてくれれば、オレはスゴいんだゼ!」と言っても、そりゃあ、説得力がないでしょう(笑)。

……と、エラそうなコトを言っていますが、今回のハナシは、読者に対してではなく、完全に、自分自身に言い聞かせています(苦笑)。

昨年・今年と、改めて自分に与えられた仕事を見るにつけ、やはり、自分にはこういう仕事が向いていると思われているのかと。
個人的には、全く得意とは思えず、むしろ、苦手な分野だと思っているのですが……

まぁ、自分でやりたい仕事を獲得するための努力もしていませんし、以前と違い、周りが判断してくれたなら、しっかり全うすべきだとも思いますが、やはり、どうもしっくりこない。

……そもそも、自分はどの分野で遠くに行きたいのかが先決なのですが(笑)。

第12回 今さらですが、不倫は「文化」か? open

みなさん、こんにちは。
クルマに乗る際、助手席ですらシートベルトをしていなかった頃も知っているshimanyです。

さて、少し前のコトになりますが(と思って調べてみると、なんと、20年前!)、かつて石田純一さんが、「不倫は文化だ」と発言し、かなり物議を醸したコトがありました(本当はもう少し別の発言だったという情報は、この際、無視(笑))。

しかし、当時から、ボクはなんでそんなにこの発言が批判されるのか、よく分かりませんでした。
というのも、「文化」というコトバ自体には、そもそも「高尚なモノ」とか「素晴らしいモノ」といった意味はなく(「文化的」というと、ちょっとそのニュアンスは入りますが)、この発言だけでは、特に不倫を肯定したコトにはならないからです。

例えば、現在の常識ではおよそ非人道的と思われる「纏足」や「人食」について、「纏足は文化だ」とか「人食は文化だ」と発言しても、決して纏足や人食を肯定しているようには聞こえないと思います。
それなのに、なぜ、石田さんの発言だけ、そんなにヒステリック(?)に反応されたのでしょう?

ちなみに、人間、自分がやりたくてガマンしているコトを平気でやっているヒトを見かけると、尋常でない怒りを示すモノだとか。

それはともかく(笑)、今年に入ってからだけでも、かなり、有名人の「不倫」に関する話題が続きました(そして、まだ、続いています)。

なにせ、そもそもその名前が示しているとおり、倫理に反する行為ですから、特に有名人であれば、世間から強い批判を浴びるのは当然なのかもしれません。

しかし、そんな背徳的な行為のはずなのに、これだけ次から次へと連日のように報道されると、だんだん、

「え?割とみんなやってるの?」

とか、

「あれ?意外と普通のコトなんだ」

というコトにならないのでしょうか?(笑)

実際、『はじめての不倫学』(坂爪 真吾著/光文社新書)という本の帯には、大きく「不倫人口(て、なんだよ)「500万人」の現実」と書かれていましたし、あるネットの記事(http://any-stress.com/archives/20797)では、働く女性を対象とした調査で、約6割の女性が「不倫の経験あり」と回答しているそうです。

ボクのごく身近なヒトが、

「今日、職場で、3人のおばちゃんが芸能人の不倫をさんざん批判したんだけど、そのうち2人は不倫してるんだよね」

と言っていましたが、まさに、名言(笑)。

う〜む。
しかし、どうしてこういうコトになるのでしょう?

そもそも一生涯のウチに、できるだけ多くの異性と「肉体関係」(by 乙武洋匡さん)をもち、可能な限り自分の遺伝子の多様なヴァージョンをしたいというのは、生物として、ごく普通の欲求ではないかと思います。

それが、なぜ、社会的に批判される行為になったのでしょう?

……というようなコトを考えていた矢先に、「人間の一夫一婦制、理由は「真実の愛」でなく細菌」という記事を見かけました(http://www.afpbb.com/articles/-/3083813)。

まぁ、いくら研究が進んでも、過去に戻れない以上、本当のトコロは分からないでしょうが、しかし、少なくとも記事にあるように、「研究チームによると、社会的に強制された一夫一婦制を人間が取っていることは長年にわたり「進化の謎」と考えられていた」んですね。

人間の社会は、生物としての自然の営みを無制限に許すと、(性感染症等)なんらかの理由で立ちゆかなくなったため、"ムチ"の方向としては「倫理」や「道徳」、"アメ"の方向としては「愛」というストーリィやフィクションによって、その行動に制限をかけようとしたのではないかと思います。

つまり、そもそもが"不自然"な制限だったため、最近、いろいろとほころびが目立ち始めているのではないでしょうか。
ぼちぼち、生物としての"デフォルト"をおさえつつ、よりみんなが幸せを感じられるような、新しい考え方が求められているのかもしれません。

で、冒頭のハナシに戻りますが、「不倫は文化だ」という発言に過剰に反応していたヒト達は、もしかして、

「不倫は「文化」なんていう限られた地域のハナシじゃない!全世界的、いや、人類としては普遍の営みなのだ!!」

という、至極、科学的な理由で立腹していたのでしょうか……?(笑)

第11回 「逆」から考える open

みなさん、こんにちは。
最近のAKBを見るたびに、「卒業って、通常、元の場所には戻らないコトじゃ……」と、ごく普通の部分で混乱してしまうshimanyです。

さて、小学校5年生の時だったと思うのですが、理科の公開授業というモノがありました。
これは、理科室でやる我々の授業を、他の学校も含めた大勢の先生が見学し、それをモトに、あとでウチの担任に対し、あれこれダメ出し(笑)するというモノです。

で、その時の課題が、

「水と食塩水では、どちらが重いか?」

を、実験で確認するというモノでした。

クラスを6グループぐらいに分け、それぞれのテーブルに、少し大きめの水槽と、ヤクルトの容器のようなモノと食塩が与えられ、グループで相談し、それを使って実証しろという訳です。

で、今とは違って(笑)仕切り屋だった当時のボクは、

「水を入れたヤクルトの容器を水槽に入れて、水槽の水に塩を溶かし容器が浮かんだら、塩水の方が重いってコトじゃん!」

と思い立ち、早速、水槽の水にジャンジャン塩を入れ始めました。

……しかし、ヤクルト容器は全く浮いてくれません。

おそらく、中の容器に対して水槽の水が多過ぎて、食塩水の濃度がほとんど上がらず、思ったような効果が出なかったのです。

そこで、提案した手前、焦ったボクが、さらに大量の塩を入れようとしたトコロを見かねて、見学していた先生が、こう言いました。

「なにも、周りの水に塩を入れなくても、ヤクルトの容器の方に塩を溶かして、それが沈んだら、いいんじゃないの?」

……あまりの衝撃に、ボクは、「いないはずの先生がアドヴァイスしていいのか?」という当然の疑問も忘れ(笑)、しばし、コトバを失いました。

その発想はなかったわと。
これが、「逆転の発想」かと。

そして、これが「教育」かと。

まぁ、そうは思いませんでしたが(笑)、とにかく、今でもその時のコトをハッキリ覚えているくらい、ボクにとっては非常に強烈なできゴトでした。

似たような例は、他にもあります。

たとえば、日本人なら、夏は裸足で畳の上を歩きたいと思いますが(断言)、実際には、現代の日本家屋ではなかなか畳は敷けませんし、さらに、ずっと畳を感じていたければ、部屋の全面を畳にしなければなりません。

そこでなのですが、みなさん、無印の「畳スリッパ」をご存知でしょうか?
これは、スリッパの、足の裏と接触する面が、畳の素材になっているのです。

そうなのです。
つまり、ずっと畳を感じたいと思っても、なにも、部屋全体が畳である必要はなく、結局、足の裏だけが常に畳に触れていればよいのです。

また、ウチでフロの浴槽の掃除をしようとしていた時のコトです。

CM等で、浴槽に直接洗剤を噴きかけて掃除をするシーンを見慣れているので、当初はそうしていたのですが、実際には、どうも洗剤が多く残ったり、逆に、足りなかったりするコトが続きました。

で、これも、ある日、気が付きました。
浴槽の方ではなく、スポンジ側に洗剤をつければよいのだと。
これによって、かなりムダが省けるようになりました。

このように、ごく普通に考えれば多大なコストがかかる事案も、物事を逆から捉え、本当に必要な部分だけからアプローチすれば、途端に少ない労力で解決できるようになります。
小学生の時にこのコトを学んでから、これまでの人生で、何度かこの考え方に助けられました。

……まぁ、フロ掃除の効率化くらいですが(笑)。

で、今考えているのが、日頃の仕事についてです。

大抵、どんな仕事も、顧客や同僚から、突然の要求や相談や指示が常に入り、しかも、その頻度がかなり高いモノです。

そうすると、そのたびに作業が中断され、せっかく立てていた予定やだんどりは崩れ、さらに、そうやって中途半端にしか終わっていない仕事の上に、どんどん新しい仕事が上積みされていき、混乱するばかりで、非効率この上ありません。

それらを、全て普通に受け止めて真正面から対応していくのは、いわば、畳みを感じるために、家の中にくまなく畳を敷くようなモノです。
どうにかアプローチを逆転し、この状況を一気に解決できないか!?

……発想は間違っていないと思うのですが、そこで、ボクの思考は、塩水の入ったヤクルト容器のように沈んでいくのです……

第10回 「個性を出す」とは open

みなさん、こんにちは。
プロ野球が何ごともなかったかのように開幕したのを知り、賭博に対する認識を新たにしたshimanyです。

さて、普段は全くテレビを見ないのですが、そんなボクですら、オリエンタルラジオ(正確には、RADIO FISH)の「PERFECT HUMAN」が話題なのは、さすがに耳に入ってきました。

さっそく曲を入手してみると、想像以上にカッコよかったため、すぐさま我が家のヘヴィ・ローテーションとなり、就学前の子ども達もあらかた歌えるようになってしまいました(かけすぎ)。

で、この曲、一体、お笑いなのか普通の歌なのかというコトが、ちょっとした議論(?)になっているようです。

確かに、お2人の最初のブレイクである「武勇伝」や「あがめたてまつれ!」からの流れは一応汲んではいるモノの、曲の中に明確なオチやボケがある訳ではありません。

これなら、普通のミュージシャン(?)である、さだまさしさんの「雨やどり」を含む一連の楽曲や(いささか例が古くて申し訳ありません)、場合によってはユニコーンなんかの方が、よっぽど歌詞において笑いを志向しています。

一方、芸人の方たちがお笑い抜きのマジメな曲を歌うというのは、それこそ猿岩石やくず等をはじめ(やはり、例が古くて申し訳ありません)いくらでもあるので、そちら狙いなのかといえば、この曲が最初に本格的に発表された場が、いわゆる「ネタ番組」だったと聞くと、やはり、オリラジのお2人は、あくまでもこの曲をネタとしてやったのだと思われます。

しかし、やっぱり、ネタにしてはいささか……

……と、いろいろ思わせた時点で、既にお2人の勝ちだと思うのです。

どうしても、何ごとも既にあるジャンルに押し込め、なんとか納得しようとしがちな我々に対し、「これは一体なんなんだ?」と思わせるコト、つまり、既成の概念からはみ出る新しいコトをやるコト自体に、とても意味があると思うのです。

ただそれは、口でいう程簡単ではありません。

大抵、新しいモノというのは、上記のように、基本的に保守的で、これまでの枠組みに収めたいと思う多くのヒト達(もちろん、自分を含みます)から反発を買います。
今回は、幸いハマりましたが、それこそ、当番組で岡村さんがツッコミとして言っていた「やめろ!」「帰れ!」が、リアルな反応として返ってきた可能性もあった訳です。

実際、この曲をネタ番組でやろうというのは、相当の覚悟が必要だったと思います。
しかし、たとえ、世の中の反応がどうであれ、自分の本当にやりたいコトができるか?いいと思うモノを発表できるか?が問題なのだと思います。

そして、それらの集積が、いわゆる「オリジナリティ」とか「個性」といわれるモノになるのかもしれません。

この、クリエイティブな分野における「個性」を考える度に思い出すのが、KANさんの大ヒット曲「愛は勝つ」なのですが(またまた例が……(以下略))、KANさん曰く、この曲はビリー・ジョエルの「アップタウン・ガール」をかなり意識して(というか、寄せて)作ったつもりだったのに、発表後、ほとんど指摘がなかったとのコト。

確かに、そういった目(耳)で確認してみると、実はかなり似ているのですが、言われなければ、全く分かりません。
このように、たとえマネから入っても、自分のやりたいコトをしていれば、勝手に出ちゃうのが個性なのです。

しかし、逆に「よし、個性を出したろう!」と思っても、今度は中々出てくれません(笑)。
というか、そもそも、どうやったら、自分のやりたいコトが表現できるかが、最初はよく分からないのです。

それまで、十分ヒット作を出していたのに、本当に自分達のやりたい音楽ができるようになったのは、やっと4枚目のアルバム「Risky」(以下、略)あたりからだとB'zのお2人がおっしゃっているのを、インタビューで見たコトがあります。
あのお2人ですら、そうなのです。

結局、苦しくて、「なんでできないねん!」と自分にハラを立てながらも、その時点で精一杯、自分のやりたいモノ、カッコいいと思うモノを発表し続け、ホンの少しずつでも自分の思ったとおりに表現できる技術とセンスを身につける。
クリエイティブな分野で何者かになりたいと思った場合、結局、愚直にそれを繰り返すしかないんじゃないないでしょうか。

……なぁ、オレ(笑)。

第9回 あなたは「いいヒト」ですか? open

みなさん、こんにちは。
電車や映画館……どころか、オフィス内で普通にタバコを吸えていた時代を知っているshimanyです。

さて、みなさんは、周りのヒトから、「いいヒト」だと言われたり、思われたりしたいでしょうか?
「あたりまえだろう!」とお叱りを受けそうですが、ボクは以前から、どうもこの「いいヒトと思われたい願望」に、大いに疑問をもっています。

と言っても、個人的に、ヒト知れず「いい人間でいよう」「いい人間でありたい」と思い、密かにそのための実践をしたり、努力をするコトは非常に尊いコトだと思います。
そうではなく、ここで問題としたいのは、単に、他人から「あのヒトはいいヒトだ」と言われるために、ムリやガマンをしてまで自分の行動を修正する場合のコト。

そうですねぇ、たとえば……最後の1個の唐揚げを食べないとか(笑)。

もちろん、わざわざ「ワルいヒト」と思われる必要はありませんし、「好感度」がその職業の本質である芸能人の場合は別でしょうが、一般のヒトの場合、超食べたい唐揚げをガマンしてまで「いいヒト」だと思われる必要は、どこにあるでしょう?

普段から「いいヒト」だと思われていれば、何かあった時に助けてもらいやすくなるという面はあるかもしれません。
しかし、ボクのように全くそう思われていなくても、普通、明らかに困っていれば、大抵、周りのヒトは助けてくれます(単に、めちゃくちゃ恵まれた職場にいるだけかもしれませんが)。

あとは……何でしょう……
「いいヒト」と言われたら、ちょっとキブンがいいとか?(笑)

確かに、「いいヒト」と言われるのは、ウレしいモノです。
しかし、常に「いいヒト」だと思われていると、周りからは、いいコトをするのがあたりまえと思われるようになります。

かつて職場で、内面は全く違うのですが、表面的には割とコワモテな職員さんがいました。

そのヒトが、他の職員さんに、なんかちょっと優しい行為(ドアを開けてあげたり)をすると、

「うわぁ~Kさん、やさしぃ~」

と言われていました。

しかし、逆に、普段からいいヒトだと思われていると、たとえ、Kさんと同じコトをしても、特に評価されるコトはありません。
それどころか、たまにそれができなければ、本来は、単にプラマイゼロの状態のはずなのに、

「え~あんなヒトだと思わなかった」

と、なぜかマイナスの評価になってしまいます。

つまり、ムリをしてまで「いいヒト」と思われるコトに、積極的な意味はないと思うのです。

そもそも、「いい」というのは、その対象の絶対的な価値を言っている訳ではありません。
そうではななく、その対象が、あくまでもそれを言っているヒトにとって好ましいか、都合がよいかを言っているに過ぎません。

それが証拠に、「いい本だ」「いい曲だ」「いい映画だ」という評価には、大抵、全く反対の評価がつきモノです。
(「いい」というのが絶対的な評価であれば、そんなコトはありません)

なので、大抵、「あのヒトは、いいヒトだよね~」と言う場合は、意識するかどうかは別にして、「あのヒトは、自分にとって都合が良い」とか、「あのヒトは自分の言うコトによく従ってくれる」と標榜しているに過ぎません(典型的なのが、子どもに対する「いいコ」という評価かもしれません)。

なので、他人から「いいヒト」と言われるためには、相手の気にいるように自分の側をコントロールしなければなりません。
それが、ラクだったり、楽しかったりするはずがありません。

曽野 綾子さんに、その名も『「いい人」をやめると楽になる』という本がありますが、こういう構造ならば、それはむしろ当然です(実際には読んでいないので、全く違う内容かもしれませんが……)。

「いいヒト」と思われたいというのは、そもそもその理由を考えるコト自体がおかしい、自明の価値だと言われるかもしれません。
しかし、実際、こう考える人間もいる訳です(笑)。
この件に限らず、普段、「あたりまえ」だと思っているけど、なぜか、息苦しかったり、心地が悪いコトがあれば、一度、それを根底から疑ってみると、意外と簡単にラクになる方法が見つかるかもしれません。

どんなにガンバったって、自分以外のヒトの思うコトや言うコトは、一切コントロールできないのです。

……だったら?(笑)

第8回 「幸せになる」とは? open

みなさん、こんにちは。
御年70歳の方が何の違和感もなく仮面ライダを演じていてるコトに、日本の超高齢化社会に一筋の光明を見るshimanyです。

さて、みなさん、突然ですが、ある日、身近なヒトに、

「あなたは、今、幸せですか?」

と聞かれたら、どう答えますか?

もちろん、中には、「ええ、超最高に幸せです!」と胸を張って答えられるヒトもいるでしょうが(イメージとしては、松岡修造さん)、ボクも含め、大半のヒトがそうではないように思います。

他人に向かって、ハッキリと「自分は幸せだ!」と言うのは、なんか、窮屈、というか、居心地が悪い。
また、他人から「あなたは幸せで、いいですね」と言われると、本来、喜ぶべきコトのはずなのに、なぜか「全然そんなコトないよ!」と否定してしまう……どころか、場合によっては、キレてしまう(笑)。

では、実際、幸せでないかというと、決して、そんなコトはありません。

少なくとも自分を振り返ってみると、当面、追い出される心配のない家に住み、毎日、おいしくご飯を食べられている。
ムスコは毎日元気で、今のトコロ口答えもしない素直さをもち、ムスメは、昼間は笑いながら飛び跳ね、夜はベッドで「とぉちゃん、手ぇつないで寝よ~」と言ってくれる。

……幸せそのモノじゃないですか(笑)。

こうやって改めて振り返ってみると、自分は(そして、おそらくみなさんも)とんでもなく恵まれているし、感謝すべきコトがたくさんある環境にいると思います。
つまり、それをもって「幸せ」と言ってもいいはずです。

なのに、なぜ「幸せか?」と聞かれると、そういった満たされた面ではなく、「仕事上でストレスがあって……」とか、「自分の時間がなくて……」とか、どうにか「幸せでない」部分を見つけようとしてしまうのでしょうか?

一方、今度は質問を変え、

「あなたは幸せになりたいですか?」

と聞かれたら、おそらくほとんどのヒトが即答で、

「幸せになりたいに決まってるじゃないですか!」

と、自信満々に答えると思います(笑)。

つまり、多くのヒトが、「自分は幸せだ」と思うのではなく、「幸せになってみたい!」と強く願っているのです。

さとうみつろうさんの『神さまとのおしゃべり』という本は、ボクにとってとても斬新な内容でしたが、その中でも特に、

「全ての自分の願いは、既にかなっている」

という考え方に非常に衝撃を受けました。

……といっても、到底にわかには信じがたいと思うので、実際に本を読んでいただきたいと思うのですが(笑)、とにかく、その考え方にのっとれば、「幸せになりたい!」と願っているうちは、ずっと「幸せでない」状態でありつづけるというのです。
なぜなら、「幸せになりたい」と願うためには、「幸せでない」必要があるからです(本の中には、総理大臣には、「総理大臣になりたい!」という願いゴトはできないという例が出てきます)。

つまり、「幸せになりたい」という願いをかなえるためには、どうにかして、自分が「幸せではない」証拠を見つけなくてはいけません。

……なんか、おかしいですね(笑)。

上記したように、しっかり振り返ってみれば、朝、目が覚めて起き上がれるコトからして、毎日、奇跡のような幸運の上にボク達の生活はなりたっています。
そう考えれば、十二分に幸せなはずです。

しかし、「幸せになる」という願いをかなえるためには、一度、わざわざ幸せでない状態にならないといけません。
山の頂上にいるのを望んでいるのに、「頂上に登りたい!」という願いをかなえるために、わざわざ頂上から降りるようなモノです。

少なくとも「幸せになりたい」と思っている間は、絶対にそこにはいけないのならば、まずは「自分は既に幸せなのだ」と思ってみましょう。
自分で言ってみましょう。
すでに頂上にいると、宣言しましょう。

……う~む、理論的にはそうなはずですが、やはり、むず痒い(笑)。

ただ、ハタから見て幸せそうに見えるヒトって、"ないモノ"に目を向けて文句を言うより、既に"あるモノ"に感謝しているヒトのような気がするのですが、いかがでしょうか?

第7回 自分の都合で open

みなさん、こんにちは。
いまだに自転車の手信号をするおじさんを見ると、ほっこりする反面、結局、どちらに曲がりたいのかが分からないshimanyです。

さて、みなさんご存じのとおり、元プロ野球選手の清原和博容疑者が、覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されました。

清原容疑者といえば、ボクとほぼ同年代であり、当時はまだ、甲子園もよく見ていたので、桑田真澄氏と共に、(マンガの方の)明訓高校のような3年間の活躍は、非常に強く印象に残っています。
また、例のドラフト会議を受けた日本シリーズでの号泣シーンも、リアルタイムで見ていました。

文春の記事から(またもや、文春!)、そういうウワサがあるのは知っていたモノの、上記のような思い出もあり、実際に逮捕されてしまったのは、非常にザンネンです。
しかし、それとは別に、今回の件に限らず、こういった事件報道について、いつも不思議に思っているコトがあります。

大きな事件が起こり、容疑者が逮捕されると、その後、連日のように、取り調べにおける容疑者の様子や供述内容が次々と新聞やニュースで報道されます。
そして、別段、それをおかしなコトだと誰も言いません。

しかし、ボクを含めた公務員には(それ以外のお仕事でも、大抵、そうだと思いますが)、職務上知り得た秘密は、決して外部に漏らしてはいけないという「守秘義務」があるはずです。
ニュース等では、「捜査関係者への取材から」という表現を頻繁に目にしますが、供述内容が分かるのは、かなり重要な位置にいる警察関係者、つまり、公務員のはずです。

しかも、まだ、容疑者段階での供述なんて、その内容が事実だとしても(事実でなければ、さらに問題!)、決して外に漏らしてはいけない、最上級の職務上の秘密のはずです。
それが、なぜ、こんなに簡単に外に漏れるのでしょう?

「社会的関心が高い事件だから」「国民には、知る権利があるから」 確かに、それはそうでしょう。
しかし、報道機関は、他方で企業の個人情報流出等、重要情報の漏洩については非常に厳しく追求しているはずです。

取材で簡単に守秘義務を破るような"捜査関係者"には、

「おいおい、なんで教えるんだよ!」

と、自分で聞いておいてなんですが、強くツッコむべきではないでしょうか?(笑)

知る権利は重要ですが、しかし、悲しいコトに、まだまだ誤認逮捕や冤罪があとを絶たないコトも、また、事実です。
もし、あなたの身内が(いや、自分自身が)間違いで逮捕され、その後、自分が言っている内容が(もしくは、言ってもいない内容が!)次々と世間に流布されていたら、どうでしょう?

一方では、厳しく糾弾している秘密の漏洩を、一方では、自ら促す。 人権を守れとウルサく言う割に、「疑わしきは罰せず」の大原則を無視して、あくまでも"容疑者"の(そして、その関係者の)プライバシィを次々と明かし、刑罰の前に過度な社会的制裁(しかも、時に間違っている!)に加担する。
こういった、ダブルスタンダードは、どうも、信用できません。 (言うまでもないですが、被害者のプライバシィは、さらに厳重に守られるべきです)

他にも、たとえば、「護憲」を強く標榜する政治団体があります。

憲法を守るコトは、言うなればあたりまえのコトですし、それ自体は、至極まっとうな主張です。

しかし、第9条も憲法ですが、第1条も、もちろん、憲法です。
そして、大抵のモノは、重要なモノから順番に並んでいるような気がします。

ボク自身は、特になんの政治的信条もありませんが、憲法を守れと強くいう以上は、第9条とともに、当然、第1条も同じように守るべきだとは思います。
戦争反対はいいですが、その一方で、天皇陛下を軽んじたり、場合によっては否定するコトは、「護憲」というのならば、おかしいような気がします(第9条だけを守りたいなら、もう少し別の表現をすべきです)。

以上のように、自分の都合のよいトコロは強く主張して他人を批判する一方、気に入らないトコロは無視したり、勝手に解釈を変えたりするというのは、どうも納得できません。
情報漏えいを批判するなら、全てについて批判すべきですし、憲法を守れというなら、全てについて守るべきではないでしょうか。

……珍しく政治的な発言をしてしまいましたが、雑誌的に大丈夫?(笑)

第6回 自分のチカラと自分の場所 open

みなさん、こんにちは。
芸能だけでなく、ついに政治をも動かしたセンテンススプリングの勢いに目を見張っているshimanyです。

さて、ボク自身は、ここ数年は家族と紅白を見るようになってしまってすっかりご無沙汰ですが、昨年の大晦日も、恒例の「絶対に笑ってはいけない」シリーズが放映されました。

今回は、ついに10回目だったそうで、さすがにマンネリだとか、ネタ切れだとか言われていますが、それでも、結局、民放視聴率1位を6年間もキープしているというのは、やはり、スゴいコトだなぁと思います。

で、この番組、毎年、こういう番組には絶対に出なさそうなゲスト(昨年なら、石坂浩二さんとか堀北真希さんとか)が出演するコトで豪華と言われているように思いますが、それ以上に本当に豪華なのは、(異論はあるでしょうが)今、日本で1番ヒトを笑わすのが上手なヒト達が、笑わす方ではなく、あえて笑わされる側にいるという点ではないでしょうか?

昔、明石家さんまさんがもっと若く、今以上に「しゃべくりおばけ」(なんだ、それ)みたいに言われていた時期に、さんまさん自身は全くしゃべらないCMがありましたが、それと似た贅沢さを感じます。

このコトを、他の例でも考えてみると、例えば、(ボクが出す例は、いつも若干古くて申し訳ないのですが(笑))「料理の鉄人」である道場六三郎さんが、料理を作るのではなく、食べる番組というか。

……あ、あったな(笑)。

さすがに食べるだけではなく、審査員という体でしたが(実際は、お酒ばかり召し上がっていましたが(笑))、いずれにしても、道場さんが作る側ではなく、消費する側にいた点で、「笑ってはいけない」と同じかなと思います。

で、これはどういうコトかと考えると、おそらく、何かに飛び抜けて秀でたヒトは、当然、その分野自体に非常に詳しく、その分野における的確な評価ができるだろうと思われているのだと思うのです。

つまり、あのダウンタウンが、笑うなと言われているのに笑うくらいだから、とてつもなくおもしろいのだろうと思わせるという構造ですね(道場さんは、「おいしいと言うな!」とは言われてませんでしたが(笑))。

で、もうちょっと広げて考えると、この、「よいプレイヤは、よいマネイジャになるはずだ」という考えは、たいていの分野でも同じように思われているように感じます。

スゴく実績を残したアスリートは、引退後、その世界で優秀なコーチや監督になれるだろうとか、もっと一般的なハナシでも、職場で優秀な成果を出していたヒトは、管理職側に回っても、同じようにスゴい結果を出すだろうだとか。

しかし、スグに「名選手に名監督はいない」というコトバが想起されるように、必ずしもそのようなコトはありません。
むしろ、モウリーニョのように、プレイヤとマネジメントでは、全く違う才能・能力が必要のように思います。
(まだまだ分かりませんが、ジダンのような例外はもちろんありますが)

ただ、そうだとしても、普通の会社(公的機関も)では、一社員として成績が悪いヒトが、マネジメントだったら能力を発揮できるだろうと、いきなり抜擢されるコトはおそらくないでしょう。
逆に、本人が「現場がいい」と言っている場合でも、優秀な成果を出すと管理側に回され、本人も窮屈な思いをして期待されていたような成果が出せず、その上、現場も重要な才能を失うという悲劇も起こります。

このコトは、おそらく、多くのヒトが実感し、指摘もしているでしょうが、なかなか解決もムズカしい。
実際、リストラされた中高年の再就職が大変だみたいな番組で、面接の際、全く初めての職場なのに、「自分は管理職で結果を出してきたから、管理職で採用してくれ」みたいなヒトの映像を見ると、なんだかなぁ……と思ってしまうのも事実です。

とはいえ、本当にデキるヒトは、何をやらせてもデキるんですけどね(どっちやねん)。

一方で、実績を残したヒトがシンドい現場からは身を引き、その"名前"でもうちょっと楽に稼ぐ一方、その空いたポジションに後進が入っていくという構造もあると思うのですが、第一人者のダウンタウンが、50を越えても、第一線で、今なお普通のバラエティ以上に過酷なカラダの張り方をしているのを見ると、なんというか、ファンとしてはウレシいですが、あとに続こうとしている若手達は、本当に気の毒だなぁと思うのです(笑)。

第5回 ひろがり、つながる。 open

みなさん、こんにちは。
ジャニーに、メリーに、ジュリーか……と思う、shimanyです。

さて、今やすっかり日常語として定着した感のある「セクハラ」(セクシャル・ハラスメント)。

ニュースなんかを見ていると、最近は、男性が女性に対してふるった明らかな暴力や、それはセクハラなんて軽い問題じゃなくて完全に強姦だろ!というような事例まで全て「セクハラ」と表現され、確かに、嫌がらせには違いないけど、そうじゃないだろ……と思うコトもしばしばですが(苦笑)、とにかく、「セクハラ」というコトバは、昔から確かに多くの女性が感じていたであろう、お酒の席等でヤラしいコトを言われる嫌悪感や、なにかというと結婚のコトを聞かれる不快感をウマく言い表してくれるコトバだったため、登場(?)と同時に、瞬く間に拡がった印象があります。

で、このセクハラの成功(?)に気をよくしたのか、そのあとにも似たようなコトバがどんどん出てきました。

それでも、まだ、「パワハラ」(パワー・ハラスメント)や「モラハラ」(モラル・ハラスメント)、「マタハラ」(マタニティー・ハラスメント)あたりまでは、まぁ、どうにか聞いただけで意味が分かったのですが、最近では、「オワハラ」(終われハラスメント/採用企業が学生に対して就職活動をやめさせるハラスメント)や「パタハラ」(パタニティ・ハラスメント/父性ハラスメント?)なんていうのも目にするようになり、もう、なんだかよく分かりません。

まさに、「ハラハラ」(ハラスメント・ハラスメント)。

他にも、似たような拡がり方をしたコトバとしては、「◯活」がありますよね。

「就職活動」を「就活」と略すのは、おそらく、ボクが大学生の頃からあると思いますが、少し前から、「婚活」(結婚活動)や「妊活」(妊娠活動)、「朝活」(朝活動)、「腸活」(腸活動?)なんていうコトバが次々と登場し、ついに、死ぬにいたっても、「終活」(終末活動?)が必要になりました。

というか、わざわざ「◯活」なんて言わなくても、そもそも、人間が生きている以上、そりゃ、なんらかの活動はしてるだろう、と。

……あ、それが「生活」か。

あと、さらに前には、赤瀬川源平さんの『老人力』から始まる、「◯◯力」というのもだいぶいろいろ登場しました。

本のタイトルになったモノだけでも、『鈍感力』(渡辺淳一さん)とか『からっぽ力』(井上暉堂さん)とか『空腹力』(石原結責さん)とか、果たしてそれはチカラなのか?と思うモノもありますが、その点では、なんといっても、極めつけは、五木寛之さんの『無力』でしょう。

ちなみに、この「◯◯力」では、「女子力」なんかが完全に市民権を得た印象があります。

さて、以上にご紹介した例は、いずれも、ある概念に適切な名前が付いた途端に一気に拡大し、併せて、類似の表現が噴出したという点で、非常に似た構造をしています。

そして、後続のコトバに、絶妙に最初のコトバのニュアンスが引き継がれている点でも似ています。

という訳で、引き継ぐといえば、最近、特にボクが気になっているコトバは、「◯代目」。

たとえ、それまで、そのヒト(や集団)を全く知らなかったとしても、いきなり「◯代目」と名乗られた時点で、有無を言わさず、そこに強い歴史性と権威を感じます。

その名前に、次世代に引き継がれるだけの価値があるコトを物語っているからです(と思わせる効果があります)。

これまで、メンバ交代を繰り返し、オリジナルメンバと完全に入れ替わってしまったグループもあったと思いますが(モーニング娘。とか)、そこに、あえて「三代目」と冠した途端に、上記のような効果以外にも、「家元」や「襲名」といった、ちょっとハードでバイオレンスな意味合いを、こちらが勝手にくんでしまいます。

他にも、ボクと同じ世代の方なら、「◯代目」といえば、三代目魚武濱田成夫(うおたけはまだしげお)さんですよね。
果たして、初代や二代目はいたのでしょうか。
そして、大塚寧々さんとのお子さんは、四代目になったのでしょうか……

二代目加勢大周。

とにかく(笑)、そもそも「その名前を引き継ぎたい!」と思ってくれるヒトがいるからこそ、「◯代目」が存在する訳です。

いつか、誰かにそう思ってもらえるように自分の名前を育てたいなと、初代shimanyは思っているのです。

第4回 免許皆伝 open

みなさん、あけましておめでとうございます。
昨年末に初めて「東条湖おもちゃ王国」に行き、すっかり、その巧妙過ぎる"徴税方法"に舌を巻いたshimanyです。

さて、職場には、毎年秋に、図書館司書の資格を目指している大学生が実習に来ます。
普段、大学生としゃべる機会等全くないので、ここぞとばかりに、興味のある大学生のパソコン事情なんかを聞きます。

ところが、ネットやニュースから想像していると、もう、大学生なんて、それこそ全員、スマホはもちろん、タブレットかノートPCを常に持ち歩き、当然、授業でも使いまくって、読書は電子書籍で、常にデジタル・デジタル……かと思うと、実際は、全くそんな様子ではないとのコト。

というか、そもそも実習自体、パソコンを使って行うのですが、その操作方法を見ていても、それほど達人のようには……(笑)

さらに職場関係で言うと、利用者の中には東アジア系の留学生が割といるのですが、利用カードの登録や資料の問い合わせの場面等で、これまで不愉快な思いをしたコトは一度もありません。
みなさん、基本的に礼儀正しいですし、我々日本人を嫌悪しているようにも見えません。
もちろん、日本に留学するくらいですから、どちらかというと日本に対して好意的なヒト達でしょうが、それでも、日頃の報道から想像するのとは、かなり様子が違います。

また、子どもが保育所に入る時も、いろいろ事前に耳にするコトから想像していたトコロでは、当然のようにいじめが横行し、保護者間ではカースト(て、なんだよ)が敷かれ、おかしな先生やモンスタ・ペアレンツが横行する……みたいに思っていたのですが、実際には全くそんなコトはありません(笑)。
保育所関係で接する方は、みなさん本当に感じがよく、子ども達も、毎日楽しく過ごしています。

このように、マスコミを通じて見る世界と実際に自分の目で見る世界は、かなりの違いがあります。
これは、どういうコトなのでしょう?

少し前にウチの職場が新聞の取材を受けた時、実際に掲載された記事を見て、その中にかなり多くの間違いがあるコトにビックリしました。
新聞記者さんというのは、それまで一度も訪れたコトのない場所に行って、ほとんど知識がない事柄について、関係者に少しハナシを聞いただけでスグに記事にしなければならないので、誤解や理解不足があるのは仕方ありません。

考えてみればあたりまえなのですが、なぜか、我々は新聞は「絶対正しい」と思い込んでいます。
(そして、それを読んだ利用者の方に、「新聞に書いてあったのと違うじゃないか!」と怒られます(笑))

また、このような、いわば本当の"勘違い"ではあく、報道には、なんらかの"悪意"があって、意図的に事実と違うコト(ウソ)を書く場合もあると思います。

例えば、スグに思いつく例だと、芸能人の恋愛関係や、スポーツ選手の移籍等についての報道等、売るために書く場合です。
そして、本人がいくら報道内容を否定しても、みなさん、報道の方が正しく、本人の方がウソをついていると思う傾向にあると思います。

これだけいろんな問題で、新聞やテレビの誤報(という名の捏造?)が明らかになってもです。
それだけ、今でもいわゆるマスコミには権威がある(というか、こっちが勝手に感じている)というコトです。

ただ、今、あなたが読んでいる、このような文章でも堂々とネットに載る時代になると(笑)、少し事情も変わってくるかもしれません。

昔、自分が運転免許をとるまでは、友人のクルマに乗せてもらう際、どんなに初心者でも、免許をとった以上、運転技術には全く問題ないのだろうと完全に安心して乗っていたのですが、いざ自分が免許をとってみると、この程度でも免許をもらえるのかと、急に恐ろしくなりました(笑)。

これと同じで、誰でも簡単に、大手のニュースサイトと同じ媒体(インターネット)で情報を発信できるようになると、マスコミの権威に対する考え方・捉え方も自ずと以前とは違ってくるように思います。

そのコト自体がいいのか悪いのかは分かりませんが、いずれにせよ、誰もが"免許"をもてる世の中になってしまった以上、これからは自分の目で見たモノを自信をもって信じ、そうでないモノには、それなりに疑いの目をもってのぞむ必要がありそうです。

まぁ、ちょっとシンドいですが(笑)。

第3回 違いがあるからこそ open

みなさん、こんにちは。
保育園の送り迎えの際、夜回り先生の講演会のポスタの前を通るたび、子ども達に「あ、とぉちゃんだ!」と言われるshimanyです。

さて、先日、夕食の際、ムスコが突然、

「ねぇ、味噌汁って、食べモノなの?飲みモノなの?」

と聞いてきました。

「う~ん、確かに両方の要素があるけど、どちらかと言えば飲み物かな……」

と答えると、ヨメがすかさず、

「え?どちらかというと、食べモノでしょ」

とのコト。

「味噌汁を飲む」という表現はあっても「味噌汁を食べる」という表現はあまり聞かないというのがボクの根拠だったのですが、もちろん、ヨメにもヨメなりの根拠がありました。

で、ここで取り上げたいのは、この問題のどちらが正解かというコトではなく(というか、それは慎重に避け(笑))、今回に限らず、同じ問題に対し、たとえ夫婦であっても全く感覚が違う、というか、むしろ正反対の反応をするコトが実に多いというコトです。

なんとなく結婚というと、同じ感覚や価値観を持っているモノ同士がするように思いますが(ボクもそう思っていました)、実際は、全くそうではないようです。

結婚している方なら割と同意してくれると思いますが、日々、生活していると、好きなモノを先に食べるか残しておくかという"大きな問題"から、フタやドアを開けておくか閉めておくかという本当に小さいコトまで、ことごとく双方の考えが正反対なコトに驚きます。

しかも、お互い、なんとなくそうしているのではなく、それぞれ、自分の方がより合理的だと思う理由や根拠がしっかりあるのです。

このことを、黒川伊保子さんは、『キレる女懲りない男』(ちくま新書)という本の中で、

「恋に落ちる男女は、生物多様性の論理にのっとって、感性が正反対の相手を選ぶ。つまり、そもそも「この世で最も心が通いにくい相手」を選んで発情するのである。」

と言っています。

にわかには信じがたいですが、同じ事象に全く違う(正反対の)反応をするモノ同士が一緒になるからこそ、子どもの遺伝子に多様性が増えるし、また、"つがい"の生存率が上がるというのです。

「いきなり大きな音が鳴れば、どちらかは逃げ出し、どちらかはしゃがみこむ。きっと、どちらかは生き残る」(前掲書)

のです。

もちろん、結婚前の付き合っている間にも、実はそのコトに気づく機会はちょいちょいあり、しばしば「ん!?」とか「あれ……?」とか思うのですが、その時期は、お互いメートルが上がっているので、おそらく気のせいだろうとか、その時たまたま起こった極稀なエラーだろうとか、誤差(何の?)の範囲内だとか思ってしまうのです。

で、熱い季節が過ぎ去り(笑)、次第に我を取り戻してくると、実は全く感性が違うコトに気がつく、というか、素直に認められるようになってきます。

それで問題がなければいいですが、大抵は、次第にお互いが自分の正当さ主張し合い、何かと衝突するコトになります。

もちろん、人間、自我がある以上、それは、ある程度仕方がないと思います(自己弁護)。
ただ、相手も、自分と全く同じ強さで自分の方が正しいと思っているコトを認められずに、完全に相手を否定するようになると、悲劇が起こります。

最近、特に、テロや紛争等の悲惨なニュースを毎日のように目にします。

とてもに悲しいですし、いたたまれない気持ちになりますが、もし、相手も自分と同じように、自分の方が正しいと思っている信念や根拠があるんだとか、全く違う価値観を持ったモノ同士が一緒にいるコトにこそ意味があるんだと思えるコトができれば、もう少し事態は変わるのではないでしょうか。

不思議になるくらい、普段は真逆の反応をするボクとヨメですが、そうかと思えば、結婚した当時、それぞれが一人暮らしだったため、電子レンジや冷蔵庫等がカブるのは分かるとしても、カクテルのシェイカや精密ドライバのような、あんまり普通の家にはなさそうなモノまでが一家に2つある状態になり、その始末に困ったりもしました。

そして、今でも、同じモノを見て笑います。

全く反対の感性をもっているはずなのに、やはり、何かを共有しているのです。

そしてそれは、家族にとどまらず、もっともっと広い範囲でも、きっと同じはずだと思うのです。

第2回 意外に、意外と。 open

みなさん、こんにちは。
いまだにアイス・チャレンジが回ってこないshimanyです。

さて、早くも年末が近づき、年賀状が気になる季節になりました。

それに先立ち、ご丁寧に、何枚か「喪中葉書」をいただいたのですが、その中に、イトコのお姉ちゃん(父の姉のムスメさん)ご一家の差出人名のモノがありました。

で、早速、裏を見ると、

「母、花子(仮名)が今年6月に80歳で永眠いたしました。」

とあるじゃないですか!

花子(仮名)というのは、父の姉、つまり、ボクの伯母さんにあたります。伯母さんが亡くなったなんて話を全く聞いていなかったので、驚いて、スグに実家の父に電話しました。

「こんな葉書が来たんだけど、花子伯母さん、亡くなったん?」

「え~、そんな話、聞いてないで。この前、電話で元気に話しとったけど」

「えっ?6月に亡くなったって書いてあったけど、それって、それより前のハナシ?」

「いや、10月くらい」

「……花子伯母さんって、今年80歳になってたっけ?」

「いや、2つ上やから、まだ80にはなってない」

……という訳で、にわかには信じられなかったのですが、どうやら、お姉ちゃんのダンナさんのお母さまも、ボクの伯母さんと漢字も含めて全く一緒の名前だったようなのです。

こんな偶然なんてあるんだねぇと引き続きしゃべっていると、なんのコトはない、ボクの母の妹(こちらはボクの叔母さん)夫婦も、それぞれのお母さまが全く字も一緒の同じ名前だったというコトを、その電話での途中で思い出しました。

昔は、名前のバリエーションも、今と比べると少なかったと思うので、こういうコトも割りとあったのでしょうか?

まぁ、ユニークな名前(いわゆる「キラキラネーム」)全盛の今なら、両母親とも「今鹿(なうしか)」(実在)だったり、両父親が「黄熊(ぷう)」(実在)だったりというコトは、さすがに考えられないでしょう。

ただ、それぞれの親なら、ありえるかもしれない日本の明るい未来……

それはともかく(笑)、我が家としては、できれば今後は亡くなった方のお名前だけでなく、名字も一緒に書いていただけるといいんじゃないかという結論にいたりました(もちろん、喪中葉書をいただかないのが一番ですが)。

さて、今回、夫婦双方の母親が全く同じ字の同じ名前という、ほとんどないだろうと思うような偶然の一致の例がごく身近に2例もあったように、実は、なんとなく抱いている印象と実際の確率がかなり違うという例は、他にもあります。

例えば、割りと有名なハナシなのでご存じかもしれませんが、みなさん、40人のクラスに、同じ誕生日同士の生徒がいる確率(「自分と一緒」ではありません)って、どのくらいだと思いますか?

1年は365(6)日あるので、ほとんどいないように思えますが、なんと、89%にもなるそうです(「同じクラス 誕生日 確率」あたりで検索すれば、スグに詳しい証明がヒットします)。

つまり、90%近い確率で、同じ誕生日のクラスメイトが存在しているコトになります。

漠然と思っているイメージに比べると、かなり多くないでしょうか?

逆に、思っているよりもずっと低い確率もありますが(宝くじとか(笑))、いずれにしても、実際の物事の発現分布というのは、自分が持っている"感覚"とは、かなり違う場合が多いというコトです。

で、ですが。

みなさん、自分が今後の人生において、"成功"する確率ってどのくらいだと思っていますか?

中にはなぜか自信満々のヒトもいるでしょうが、自分を含めた大半のヒトは、おそらく、何かを始めようと思った時、自分が成功する確率よりも、なんとなく、失敗する確率の方が高いと思っていないでしょうか?

もちろん、万が一に備えて準備をしておくことはとても重要なコトですし、そもそも保守的に考えるのは生物の基本的な生存戦略だとは思いますが、ただ、失敗を気にしすぎて、最初から全く始めないのでは、あまりにももったいない。

もしかしたら、根拠もなく漠然と思っているよりは、ずっと簡単にできちゃうかもしれないのです。

だから、ちょっとでもいいから、とにかくやってみましょう。
それが、成功へとつながるのです!

ただ、今回も、その前に。

「自分にとっての成功とは何か」を決めるという、もっと難しい問題が先にあるのですが(笑)。

第1回 誰がために鐘を鳴らすのか open

みなさん、はじめまして。
shimanyと申します。

両親は滋賀県(日野町)の出身のため、滋賀自体にはそれなりの思い入れはありますが、こと唐崎に関しては、これといったゆかりはありません。

たまたま、当マガジンの編集長と知り合いだったため、しばらく、このコーナの担当をさせていただくことになりました。
これも何かの縁と思っていただき、お付き合いいただければ幸いです。

さて、早速ですが、先日、歯を磨いていると、突然、親知らずの一部が欠けました。

特に固いモノを食べていた訳ではないのに、いきなり歯が欠けるなんて、いくらカルシウム不足の現代人とはいえ、既に生物としての末期状態と言っても過言ではないでしょう。

とにかく、そのまま放っておく訳にもいかないので、近所にあるという理由だけで、ある個人歯科を予約して行ってきました。

それまで歯医者さんというのは、最初にレントゲンを撮っては「はい、来週」、少し削っては「はい、来週」、型をとっては「はい、来週」、やっと埋めてもらったと思ったら、今度はクリーニングをするというので「はい、来週」、いざ、クリーニングが始まると、今度は上の歯だけやって「はい、来週」……と、「3時間待ちの3分治療」の典型だと思っていましたし、歯という部位は、なんらかの理由で、ホンの少しずつしか治療できないモノなのだと完全に思い込んでいました。

しかし、今回予約した歯医者に行ってみると、まず、患部の様子を見てもらい、先生と意見を交換しながら非常に丁寧に治療方針を話し合ったので、

「あぁ、今日はここまでか……」

と思っていると、そこから、ガシガシ削っていただき、のみならず、さらに、順次、詰めていってくれます。

で、その作業が一通り終わり、あー一気にやってくれるなんて、なんて、ありがたいんだろうと思っていると、

「じゃあ、これから歯を磨いていきます」

と言って、引き続きクリーニングを始めていただき、こちらが、「え?え?まだやってくれるの?次の患者さんは?」と恐縮している間にも作業は続き、最終的には歯石まで全部とってもらいました。

結局、欠けた歯の治療だけでなく、当初は想定していなかった歯のメンテナンスまで1回の来診でできてしまった訳です。

一体、今まで行っていた歯医者さんはなんだったんだ、と。
やればできるんじゃないか、と。

これまで特に何の根拠もなく、歯医者の治療はそんなモノだと思っていましたが、例えばこれが、床屋さんだったらどうでしょう?

髪を切って、顔剃りは来週……というのなら、まぁ、顔剃りは諦めて次週は行かないというコトもありえるでしょうが、歯医者でレントゲンを撮るだけのように、モデル雑誌を見ながら髪型の検討だけして、じゃあ、実際に切るのは来週で……と言われたら?

そして、次の週に行ってみると、その日は右サイドだけ切って、左サイドはまた来週と言われたら……?

こうして考えると、やっぱり、チョビチョビ治療がおかしなコトに気が付きます。

というか、歯医者に行く時なんて、それこそ、他の病気以上に、一気にどうにかして欲しい時な訳です。

つまり、何が言いたいかというと、「誰のためにやっているのか」「何のためにやっているのか」を常に意識していないと、なんだかおかしなコトになるんじゃないかというコトです。

先日、我がコが通っている保育園も参加する、地域の保育園の合同運動会がありました。

冒頭、誰だか知らない来賓の挨拶と紹介が延々と続き、オトナでも完全に退屈するくらいの長時間、子ども達は11月の底冷えする体育館で、半袖半ズボンのまま(!)ジっと立ちっぱなし。

しかも、そんな一体「誰得」か分からないセレモニィで時間が押したため、プログラムにあった子ども達の歌が1曲、カットされてしまいました。

一体、誰のための運動会なのでしょう?
それを考えれば、絶対、こんなコトにはならないはずです。

……と、他人のコトをとやかく言う場合、大抵、その矢は自分に返ってくる訳です。

この「唐コミ」は、誰のために、そして、何のために運営されているマガジンなのでしょう?
そして、その目的を達成するためのストラクチャになっているでしょうか?

いやいや、その前に。
このコラム自体を、その視点でしっかり見ないといけません(笑)。