第21回 証明される事のない正解


台風の吹き荒れた10月も今日で最後、明日からは11月です。
気温もめっきりさがり、暑いのが苦手なてんちょは、ほっとしながら冷え込んだ朝ふとんにしがみつく日が近くなってきました(汗

そして ひろろんてんちょも、10月から11月にかけて、個人的にもなんだかんだと切り替わりの時期となります。

ところで
みなさんは、”全幅の信頼を寄せられる人”というのをお持ちですか?
家族でも、親友でも恋人でも仕事仲間でもいいのですが、この人だけは、何があっても最後まで自分の味方だと思える人。

自分でフっておきながらなんですが、これは本当にすごく大変なことです。

考えてみれば、人間、わが身の事でも、必ずしも自分の味方にはならないことをやっている事が沢山あります。
疲れているのにすぐにやすまなかったり、
熱があるのに無理して仕事にでかける・・・なんていうのは、わかりやすい例ですよね。
ましてや、自分ではない人間がいつも最後まで自分の味方でいてくれると信じきる
というのは、それはもう相当な覚悟が必要だと思うんです。
強いていえば、”子に対する母親の愛”・・・というのがそうなのかもしれません。

すこし話は変わりますが、若い子たちの話をするときに

「多感な年ごろ」

なんて言葉をつかったりしますが、それ以上に私は、

若いころは刺激に強く、歳をとるにつれ刺激に弱くなっていく

と思うのです。

なので、信用している誰かに裏切られたと思う事があっても、若い間ならまだ、立ち直れるのですが、歳をとってくると、それはもう修復不可能な傷になってしまう事も多く、それゆえ、なんとかそれを乗り越えても、再び傷つくことが怖くなってそこからまた新たに誰かを信じる事は出来なくなってしまう・・・なんて事も多い気がします。

と、これを掘り下げて書きだすと終わらない気がしてきました(汗)
無理やり書きたい話にもっていきますね(笑)

今回書きたかったのは、、、

誰かを信用するという事は、

”その誰かが必ずしも自分が望んだ言動をしてくれることを確信する”

という意味ではないという事。

そしてもうひとつ、

”本当の最後の最後まで、本当の姿は見えない”

という事です。

愛情の形にいろんな形があると言われるように、信頼を寄せる相手が自分の事を想ってくれる形にもいろんな形があります。

もし、それが自分の思っていた形ではなかったときにそれを自分の尺度で勝手に裏切られたと思いこんでしまっては、自分にとって本当にかけがえのない人をそのまま失ってしまうかもしれません。

自分の期待する言動を相手に求めるだけでは、コンピュータに計算結果を問い合わせているようなもの。
人と人の本当の信頼関係をきずけたとは言えないんです。

そして、それらの真価が問われるのは、自分が本当によわりきったとき、
本当の土壇場になってからなんです。

わが子がころんで少し足をすりむいたとして、大げさに介抱するだけが絶対の正解ではありませんよね?
小さな怪我を授業料に学ばせることも沢山あります?

ちょっとなにか事件がおこったからといって、すぐに自分に同調して、一緒になって怒ってくれたり、悲しんでくれたりというのは、確かに味方の形のひとつではありますが、その形がすべてではありません。

自分だけでは見落としてしまう様な視点であえて苦言を呈してくれることもひとつの形なら、その程度の事と、適当に笑い飛ばしてくれるのもひとつの形です。

心地いい言葉、耳の痛い言葉、なぐさめられたり、叱られたり、
ごくあたりまえにいろんな話ができて、議論して、喧嘩して・・・
それでも、本当の最後の最後、いつかあなたが究極の決断を迫られるような時に、

一緒に戦ってくれる
一緒に泣いてくれる
一緒に笑ってくれる
ただただ、泣き言を聞いてくれる

誰かひとりでもいいんです。
そんな信頼関係を築いてくれればと思います。

それは、なかなか実際に証明されることなんてないかもしれません。
もしかすると一生証明される事はないままかもしれません。

でも、焦らず、安易に人の心をはかろうとせず、
しっかり信頼しようと思える大切な人を見つけて下さい。
本当に大切なものは、

”パソコンやスマホで問いかければすぐに答えが見つかる”

みたいな訳には決していかないと思います。

しっかり時間をかけて、なんどもこけてすりむき傷を増やしながら育てていってようやく手に入るものなんじゃないでしょうか?