第22回 「信じる」は美しいか?


みなさん、こんにちは。
日本において、「私は日本人です」という日本人はあまりいないんじゃないかなと思うshimanyです。

さて、あるヒトが、他のヒトを「信じる」という表現があります。
「お前を信じているぞ」とか「あなたを信じているわ」とか(同じだけど)。

これだけ聞いていると、何というか、実に美しいというか、いかにも「キズナ」みたいな感じで、とてもステキなコトのように思えます。

しかし、果たしてそうでしょうか?
……と、ここでいつものように思うのです(笑)。

まぁ、なんでしょう、それが、何もない時はいいのです。
「信じる」というのは、ある意味、無根拠に、そして、全面的に自分を相手に託すコトですから、究極の「信頼」のカタチです。
「信じる」と言った方だけでなく、言われた方も、大変、名誉なコトであるはずです。

ただ、その「信頼」が破られた時、例えば、友人が覚醒剤をやっていたコトが判明したりとか(あまり、ありませんが)、仕事を任せていた部下が納期に遅れたりとか(たまに、ありますが)、はたまた子どもが万引で捕まったりとか(ないコトを祈りますが(笑))した時、「あなたを信じてた『のに』」と言ってしまわないでしょうか?

以前から感じていたのですが、本来、自分が責任をとらなくてはいけない状況に対しても、「信じていた」と言うと、突然、自分は「被害者」になれるんですね。
「信じていたのに、裏切られた」と。

しかし、締め切りに遅れた部下の例で言えば、部下を信じるのは大切なコトですが、それとは別に、リスク・ヘッジというか、もし、部下が間に合わなかった場合にどうするかという手を打っておくのも、上司の大切な仕事ですよね。

もちろん、締め切りのだいぶ前から、間に合わなかった場合の準備をしている上司を見れば、

「ボクのコトを信じてないんですか!」

と言いたくなるかもしれませんが(今どき、そんな鼻っ柱の強い若者もいないかもしれませんが(笑))、ただ、それは、信じているとかいないとかとは別の問題だと思うのです。

『なぜ、あなたの仕事は終わらないのか』(中島聡/文響社)という大変耳の痛いタイトルの本を読んでいると(笑)、上司が部下に、ある時刻に花束を準備してくれと頼んでおいたのに、それが、花屋のミスで間に合わなかった場面で、

「花屋にはちゃんと電話しました!」

と言い訳する部下に対し、

「あなたに頼んだのは、あくまでも、ある時間までに花束を準備してくれというコトであって、花屋さんに注文(電話)をしてくれというコトではない」

と言う例が書かれていました。

なるほど。
「花屋を信じていたんです!」と言われても……というコトです(笑)。

話が脇道に逸れましたが、ある対象を全面的に信頼して任せるというのは、ある意味ではいいコトなのかも知れませんが、逆に、それをエクスキューズにするのは、非常に無責任で、卑怯ですらあると思うのです。

隣国に攻めて来られました。
隣国はそんなコトをしないと信じていたので、何も準備をしていなかったため、簡単に攻撃を受けました。

もう、大きな地震はこないと信じていました。
もう、これ以上の不況はないと、信じていました。
あのヒトは、絶対そんなコトをしないと、信じていました。

……なんか、非常に危うい感じがしませんか?

「じゃあ、常になんでも疑ってかかれというコトか!?」と怒られそうですが、う〜む、ある意味、そうなのかもしれません(笑)。
少なくとも、「信じている」を理由に何も手を打たないコトは、決して美しかったり、男気あふれるコトでもないと思います。
なんらかの準備か、最低でも、それが破られた時の心づもりはしておいた方がよいのではないでしょうか。

つまらない人間ですね(笑)。

しかし、まぁ、そうであるにもかかわらず、自分を捨ててでも、何かを全面的に信じてしまいたくなる時はあるでしょうし、自分を捨てているが故に、全てを引き受ける覚悟ができている時もあると思います。

それゆえに、「信仰」というモノが、ある意味で非常に尊く、そして、ある意味で、非常に危険なモノになる可能性があるのかなと思ったりするのです。