第3回 違いがあるからこそ


みなさん、こんにちは。
保育園の送り迎えの際、夜回り先生の講演会のポスタの前を通るたび、子ども達に「あ、とぉちゃんだ!」と言われるshimanyです。

さて、先日、夕食の際、ムスコが突然、

「ねぇ、味噌汁って、食べモノなの?飲みモノなの?」

と聞いてきました。

「う~ん、確かに両方の要素があるけど、どちらかと言えば飲み物かな……」

と答えると、ヨメがすかさず、

「え?どちらかというと、食べモノでしょ」

とのコト。

「味噌汁を飲む」という表現はあっても「味噌汁を食べる」という表現はあまり聞かないというのがボクの根拠だったのですが、もちろん、ヨメにもヨメなりの根拠がありました。

で、ここで取り上げたいのは、この問題のどちらが正解かというコトではなく(というか、それは慎重に避け(笑))、今回に限らず、同じ問題に対し、たとえ夫婦であっても全く感覚が違う、というか、むしろ正反対の反応をするコトが実に多いというコトです。

なんとなく結婚というと、同じ感覚や価値観を持っているモノ同士がするように思いますが(ボクもそう思っていました)、実際は、全くそうではないようです。

結婚している方なら割と同意してくれると思いますが、日々、生活していると、好きなモノを先に食べるか残しておくかという”大きな問題”から、フタやドアを開けておくか閉めておくかという本当に小さいコトまで、ことごとく双方の考えが正反対なコトに驚きます。

しかも、お互い、なんとなくそうしているのではなく、それぞれ、自分の方がより合理的だと思う理由や根拠がしっかりあるのです。

このことを、黒川伊保子さんは、『キレる女懲りない男』(ちくま新書)という本の中で、

「恋に落ちる男女は、生物多様性の論理にのっとって、感性が正反対の相手を選ぶ。つまり、そもそも「この世で最も心が通いにくい相手」を選んで発情するのである。」

と言っています。

にわかには信じがたいですが、同じ事象に全く違う(正反対の)反応をするモノ同士が一緒になるからこそ、子どもの遺伝子に多様性が増えるし、また、”つがい”の生存率が上がるというのです。

「いきなり大きな音が鳴れば、どちらかは逃げ出し、どちらかはしゃがみこむ。きっと、どちらかは生き残る」(前掲書)

のです。

もちろん、結婚前の付き合っている間にも、実はそのコトに気づく機会はちょいちょいあり、しばしば「ん!?」とか「あれ……?」とか思うのですが、その時期は、お互いメートルが上がっているので、おそらく気のせいだろうとか、その時たまたま起こった極稀なエラーだろうとか、誤差(何の?)の範囲内だとか思ってしまうのです。

で、熱い季節が過ぎ去り(笑)、次第に我を取り戻してくると、実は全く感性が違うコトに気がつく、というか、素直に認められるようになってきます。

それで問題がなければいいですが、大抵は、次第にお互いが自分の正当さ主張し合い、何かと衝突するコトになります。

もちろん、人間、自我がある以上、それは、ある程度仕方がないと思います(自己弁護)。
ただ、相手も、自分と全く同じ強さで自分の方が正しいと思っているコトを認められずに、完全に相手を否定するようになると、悲劇が起こります。

最近、特に、テロや紛争等の悲惨なニュースを毎日のように目にします。

とてもに悲しいですし、いたたまれない気持ちになりますが、もし、相手も自分と同じように、自分の方が正しいと思っている信念や根拠があるんだとか、全く違う価値観を持ったモノ同士が一緒にいるコトにこそ意味があるんだと思えるコトができれば、もう少し事態は変わるのではないでしょうか。

不思議になるくらい、普段は真逆の反応をするボクとヨメですが、そうかと思えば、結婚した当時、それぞれが一人暮らしだったため、電子レンジや冷蔵庫等がカブるのは分かるとしても、カクテルのシェイカや精密ドライバのような、あんまり普通の家にはなさそうなモノまでが一家に2つある状態になり、その始末に困ったりもしました。

そして、今でも、同じモノを見て笑います。

全く反対の感性をもっているはずなのに、やはり、何かを共有しているのです。

そしてそれは、家族にとどまらず、もっともっと広い範囲でも、きっと同じはずだと思うのです。